前回のつづき。
はじめに埋蔵文化財の展示室へ入るが、ガイドツアー中盤だったので通り抜けて古代家屋広場へ出た。
縄文期2棟、弥生期1棟、奈良・平安期1棟、鎌倉期棟、江戸期2棟が立ち並ぶ。
常陸風土記の丘は、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡と製鉄炉が確認された「宮台遺跡」の上に整備されている。昭和63年に発掘調査では珍しい巴形銅器も出土。
付近から砂鉄が採れることから台地の傾斜を利用して鉄が生産されていた。遺跡の南の「金山池」の地名も古くからのもののようだ。
復元された縄文時代の竪穴式住居。
以下は説明パネルより。
竪穴式住居
地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、藁などの植物で屋根を葺いた建物のことをいう。なお、「竪穴住居」と表記することもある。
歴史
縄文時代には盛んに造られ、のちの弥生時代に伝わり、伏屋式が主流で、壁立式は拠点集落の大型住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳の両時代に築造されたと考えられている。そして、日本の農家や民家のもととなっていった。
弥生時代の竪穴式住居。縄文期に比べ大きく、周囲を土で盛り、入口に屋根がついた。
中には住人(動き出しそうな人形)が作業中でした。
こちら手前から、奈良・平安、鎌倉、江戸2棟。
古代家屋復元広場の奥に、鹿の子史跡公園があった。
常盤自動車道建設に伴う発掘工事で発見された遺跡の一部が、工房・住居ブロックに4棟、官衙ブロックに8棟復元されている。時代は奈良~平安初期(8~9世紀)
詳細な説明板があった。
「遺構が建設された頃の大和朝廷は、東北経営に積極的でした。この遺跡は、所在地が常陸国府に近いことや、出土品の内容からみて、国営の軍需品の製造や修理の補給基地と考えられています」とある。
下記は展示室のパネル写真。常磐道が通る部分から、建物群跡が出現した。
はじめに対面するのは「2号 連房式竪穴遺構」
以下は説明板。
この建物は、地表面を東西22.124m、南北4.276mの隅丸長方形に掘り下げて床面とし、内部に東西6間、南北1間の規模で主柱が建ち、屋根を支えています。屋根は入母屋造り茅葺で、採光と換気を図っています。
発掘調査では、遺構から炉跡1基、カマド跡4基と、墨書土器、漆付着土器、瓦、羽口、砥石、小札、釘、鋼滓などが床面全体に出土しています。
建物の用途は、住宅と工房を併用したと考えられます。
床面は50cmくらい掘り下げられているので内部空間の高さがある。
複数並んでいると、一大工場地帯だった様子が彷彿とされる。
切妻造り割板葺きの庇が出た復元建物もあった。工房の製品の修理や仕上げをした作業場と考えられるとのこと。
高床式倉庫の遺構もあった。官衙の貴重品を収納していた倉庫と考えられるとのこと。
こちらは壁も茅壁。位置や規模から官衙ブロックの管理棟と考えられるとのこと。
竹と茅で編んだ壁。
土塗壁の棟は「特殊な作業棟」と考えられるそうだ。特殊ってなにかが気になった。
門も復元されている。掘立柱、控柱付き瑞籬門(みずがきもん)の古い形と考えられるとのこと。
これだけまとめて、さまざまな時代の茅葺き住居を見られる場所は貴重だと思います。
最近になって茅葺き屋根に惹かれていますが、壁をとって屋根だけ地面に置いて地面を掘って空間をつくれば、それが竪穴式住居になること、つまり現在に残る茅葺き住居は縄文からの建物の歴史を継続していることを改めて感じました。
以下は「展示室」の展示物より。ガイドの方の説明が聴けたので面白かった。
こちらは漆紙文書のレプリカ。武器等の木や縄の部分を強化する漆は官営工房の重要な資材だったが、それを保存する壺の蓋に使われていた反故紙に漆が染みて現代まで残り、文書内容から役所や庶民の生活の一端がうかがえる。
古墳時代の遺物も充実。
舟塚山古墳群出土の猿の形象埴輪。そのリアルさにびっくりした。
舟塚山古墳の陪塚から出土した短甲。
舟塚山古墳の周溝から出土した朝顔形円筒埴輪。高さ1m以上ある。
舟塚山古墳の被葬者の力の大きさが出土物からも伝わってきた。
人物埴輪は、丸山2号墳(二子塚古墳:石岡市柿岡地区高友)出土の男子埴輪が展示されていた。
つづく。