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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

国指定特別史跡・常陸国分寺跡 茨城県石岡市

茨城県の古墳、寺社、遺跡、街歩き

前回のつづき。

高浜駅から石岡駅は、1駅で距離も短く3分ほど。

今は小さな駅舎だが、2016年3月完成に向けた橋上化工事が進んでいる。

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駅周辺設備も含めて37億円のプロジェクト。

石岡駅周辺整備事業について | 石岡市公式ホームページ

 

現在の駅舎に観光案内所があってマップやチラシをいただける。自転車の貸し出しもあった。

「石岡」は北西から南東方向に伸びる細長い台地の上にあり、その南東端が高浜になる。常磐線は台地の北側の川沿いに敷かれているので、石岡駅の位置は台地下。

 

Wikipediaによれば石岡は、常陸国の国府が置かれて長らく常陸府中や常府(じょうふ)などと呼ばれ、1869年(明治2年)の版籍奉還の際に石岡と改名されたが「石岡の由来は定かではない」と記されている。

 

中心市街や国分寺跡へは駅前から西に500mほど直線を上る。

道に沿って昭和の香りを漂わす建物が数多くあった。

木造のミシン屋さん。奥が石岡駅

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「国府3丁目」の信号で、1kmほど南で水戸街道から枝分かれしてきた中町通り(国道355号)に突き当たる。角のビル1階には観光案内所(まちかど情報センター)があり、ここでも街の資料をいただける。この日は街頭で「もつ煮」を販売していたのでいただいた。

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右折して街道を北に700mほど行くと、常陸国分寺跡入口のサインがあった。

サクラが終わって静かな境内だった。

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説明板は2枚あったが、こちらは比較的新しい方。

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国指定特別史跡 常陸国分寺跡

所在地 石岡市府中5丁目1番

指定日 昭和27年3月29日

国分寺国分尼寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院である。

国分寺は、金光明四天王護国之寺といい、金字金光明最勝王経1部を安置した七重塔を設け、常住の僧20名と、最勝王経10部を置いた。寺院の財政は、封戸50戸、水田10町によってまかなわれた。

常陸国分寺跡は、昭和52年の発掘調査により、現本堂西側に鐘楼基壇(鐘つき堂の基礎)が発見され、次いで、昭和56年から二次にわたる発掘調査では、現在残されている基壇の約4倍の規模を持つことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。

近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺域東側に推定されている。寺域は、東西約270m、南北約240mの規模を持っていた。

常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(複弁十葉蓮華文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の紋様であることが注目される。これは、国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の派遣などを含む、技術指導をしたことを物語っている。

昭和60年1月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会

 

現在の本堂。御本尊は薬師如来

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 本堂の西隣に、形のふっくらした茅葺の門があった。

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葺かれた茅の密度が高い(細い?)感じがした。軒下の彫り物も見事だった。

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石岡市公式ホームページによれば、千手院は国分寺の東側に存在していた寺院で、一度衰退したものの天正元年(1573)に再興、安土桃山時代の様式を残す山門は、当時の建立と考えられるそうだ。

 

かろうじて読めた説明板を下記に転記。

市指定有形文化財

旧千手院山門(建造物)

千手院は、弘仁9年(818)、行基大僧正の弟子行円上人によって開基され、建長4年(1253)の第11世心宥上人が没するまで続いたと伝えられる。その後の記録は残されていないが、天正元年(1573)には、京都東寺宝菩提院の禅我大僧正の弟子朝賀上人によって中興されたといわれる。

近世の千手院は、府中における大寺のひとつで、「新編常陸国誌」にも、「千手院、本寺東寺宝菩提院、朱印地十石、菩提山来高寺と号す。末寺二ヶ寺門徒二十一ヶ寺、又門徒二ヶ寺あり」と記されている。これら千手院末の寺院は、その大部分が府中の町にあり、人々の信仰を集つめたが、明治初年にはそのほとんどが廃寺となっている。

また、千手院も大正8年(1919)3月、国分寺と合併して廃寺となり、現在ではこの山門が残るのみである。

昭和60年3月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会

 

 本堂の後ろに説明板のある六角堂があった。建立は昭和時代。

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石岡市公式ホームページによれば「都々一坊扇歌堂」

都々一坊扇歌は文化元年(1804)に現在の常陸太田市に生まれ、江戸で都々逸節を広めました。しかし、「上は金,下に杭なし吾妻橋」という歌が幕府の怒りを買い、江戸払いになり、姉の嫁ぎ先である府中(現石岡市)で生涯を終えました。

扇歌堂は国分寺境内にあり、扇歌の霊を祀るため、昭和8年(1933)、全国の都々逸愛好者からの浄財で建てられたものです。

 

詳しい説明板もあった。

「扇歌は、高座にあって聴衆からのナゾかけを即座に解いてしまう頭の回転の早さが、江戸時代の評判になったというが、当時の政治や社会を批判したため、江戸追放の身となった」そうだ。

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昭和になっての建立で「最近」の感もあるが、 1852年の没年で1933年建立なので江戸時代に没してから81年しか建っていない。1933年から2015年の間が82年なので、こちらの方が長かった。

 

つづく。