前回のつづき。
前夜に懐かしい方々と地酒をおいしく戴き、部屋に戻ってからの記憶が飛んでいて、掛け布団の「上」で寝てしまったので結構早く目が覚めた。
日の出前の飯豊山方向(窓ガラス外面の汚れも写っています)
6時に外に出て散歩した。
柳都大橋(りゅうとおおはし) 2002年に開通。名前は一般公募(約12000通)から選ばれたそうだ。
橋の上からの朱鷺メッセ。
信濃川の川面はとても穏やかだった。
対岸に渡って川沿いに河口方面へ。途中で大きな浚渫船を見た。
その先に、堂々とした建物があった。
新潟市歴史博物館「みなとぴあ」
現在の博物館本館は鉄骨鉄筋造の3階建て、延床面積約5500㎡の建物です。博物館の外装は木造モルタル仕上げと推測される二代目市庁舎にならって、現代工法でのモルタル仕上げを施しました。基壇部には中国花崗岩、屋根には玄昌石に銅板の段葺きを行い、全体として風格ある仕上げ材を選定しました。
この周辺に歴史的建造物が集っている。大きな四角が「みなとぴあ」、その下が「旧第四銀行住吉町支店」、そして右に国指定重要文化財の「旧新潟税関庁舎」
敷地全体も国指定史跡になっている。
外壁が美しい 旧第四銀行住吉町支店。
旧第四銀行住吉町支店建物は、大正15年5月に起工され、昭和2年10月に竣工しました。建物は昭和初期の銀行建築に多く見られる古典的な様式です。(中略)
設計者は新潟市の長谷川龍雄氏で、施工は地元の建設会社の武田組です。
外壁には花崗岩を積み、正面入口には4本のイオニア式の列柱が並びます。この列柱とその奥に見えるアーチ形の窓が、銀行だった建物の荘厳さを強調しています。
内部は、ロビーの上部が吹き抜けで天井が高く、その2階部分にギャラリーがめぐっています。柱、壁、天井は白漆喰仕上げで、腰壁や営業室のカウンター、階段の床などに大理石が用いられています。銀行建築として豪華さを表現しようとした様子が感じられます。
リズミカルな柱頭、柱上部。銅版は飾りなのか文字なのか判らなかった。
1階にはレストランもあるそうだ。次の機会で内部に入ってみたい。
旧新潟税関庁舎も公開時間前だったが外観は見ることができた。
海鼠壁に赤い瓦、赤い板扉が映える。かつてはここが信濃川河岸だった。
下記は新潟市のHP・旧新潟税関庁舎等(国指定史跡・重要文化財) 新潟市より。
「旧新潟税関庁舎等」とは、国指定史跡「旧新潟税関」とその敷地内に建つ国指定重要文化財「旧新潟税関庁舎」のことを指します。開港五港の中で唯一現存する、開港当時の運上所(税関)の遺構として、昭和44年に国の文化財に指定されました。
幕末の安政5(1858)年、徳川幕府はアメリカ・オランダ・イギリス・ロシア・フランスの五か国と修好通商条約を結び、新潟・横浜・函館・長崎・神戸の五港を開港することにしました。新潟港は日本海側最大の港町であること、幕府領であることなどが理由で開港地に選ばれました。
しかし、開港が実現しないまま幕府は倒れ、明治新政府が新潟港を開港したのは明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)のことでした。
外国との貿易に際して、開港場には輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱う「運上所」が設けられます。新潟港は川港であったため、開港後、信濃川の河口近くのヨシが生い茂る川岸を出島のように埋め立てて、運上所が建設されました。運上所の庁舎は、地元・新潟の大工たちが、一足先に開港した横浜や江戸に建てられ始めた洋風建築を参考にして造ったもので、明治2(1869)年8月21日に上棟、10月に完成しました。
この「新潟運上所」は、明治6(1873)年に「新潟税関」と改称されました。以後、昭和41(1966)年までの約100年間、税関業務に使用されてきました。
旧新潟税関庁舎は、新潟地震による被害や老朽化が進んでいました。そのため、昭和45年から2年間にわたって解体修理がなされ、塔屋とナマコ壁が特徴的な建設当時の姿に修復されました。(後略)
みなとぴあのサイトを見ると手前の木々は桜のようだ。
小学校6年生で習う社会科で
1853年 ペリー来航
1854年 日米和親条約 下田・函館の開港
1858年 日米修好通商条約(→安政の五カ国条約)
このとき開港した5つの港を書きなさい、とテストに出るところ。
5つの中では新潟が一番正答率が低いのではないか・・・
1階瓦屋根上の端正な塔。
下の大きな扉上のアーチは、力学的には意味がないのだろうが、意匠的には効いている。
見ごたえのある建物だった。
つづく。