墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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天神社 廣福寺(稲毛館跡) 枡形山(枡形城址) 神奈川県川崎市多摩区枡形・生田緑地

前回のつづき。

根岸古墳群の探訪後に台地下に降りて、多摩警察署の南を流れる小川を渡る。

上流方向に古墳があった丘陵が見えた。

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すぐに小田急線の小さな踏切を越える。

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セブンイレブンの右手の丘に神社があったので立ち寄った。

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短いが急な坂を上ると、天神社があった。

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南正面には急階段の参道もあった。

下記は、階段下にあった説明板「川崎歴史ガイド・津久井道と枡形城址」より。

天神社と韋駄天

天神社はこの辺り一円の氏神。古く「江戸名所図会」には韋駄天神社と記されている。足の速い神として知られる韋駄天の像は、今も広福寺の守護神として祀られている。

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参道左手は大規模な法面(のりめん)保全工事中だった。

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参道正面の100mくらい先、天神社と向き合うようにお寺の入口があった。

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こちらが廣福寺。

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本堂南側奥に墓地が続いていた。

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瓦屋根に溶け残る雪。

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説明板もあった。

廣福寺の文化財

当寺は真言宗豊山派に属し、慈覚大師(円珍)により平安時代承和年間(834~848)に創建されたと伝えられています。

当寺の本尊木造聖観世音菩薩立像は、寄木造、玉眼入で、制作年代は鎌倉時代末期から南北朝時代初期ごろと思われます。当初は、全身布張りの上に彩色したものと思われますが、現在は下地塗りのみが残り、一見、素木造のように見えます。

また、木造地蔵菩薩立像は、寄木造、彫眼の量感にあふれた仏像で、制作様式は平安時代後期の特色をもっています。現在は全身布張りの上に彩色されておりますが、これは江戸時代に修理を加えた際にものと思われます。

これらの仏像は、昭和41年7月19日、神奈川県重要文化財に指定されました。

昭和58年10月 川崎市教育委員会

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川崎市教育委員会のサイトにも、解説と仏像の写真が掲載されている。

川崎市教育委員会:広福寺

 

山門には「稲毛領主 稲毛館跡」とも記されていた。

広福寺の寺地は、源頼朝の有力御家人の一人であった稲毛三郎重成の館跡ともいわれていて、本堂内には木造稲毛重成坐像(桃山時代作)が祀られているほか、観音堂の裏には重成の墓といわれている五輪塔が伝えられているそうだ。(上記川崎市のサイトより)

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お寺を出て丘の上へ続く道を行く。民家や介護施設の脇を抜けると森への入口になった。

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ここからが生田緑地だった。

95.5ha(計画区域を含むと179.3ha)の川崎市最大の都市公園で民家園やバラ苑、複数のミュージアムを擁する。

昭和の森が100ha、大阪城公園が105.6ha、皇居が140haなので、計画区域を含む面積は広大(100ha = 1平方kmつまり1km四方)

 

登り詰めると広場に出た。

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標高84mの枡形山(ますがたやま)山頂。

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広場の片隅の説明板。

枡形城址と多摩丘陵

鎌倉時代、多摩川沿いの丘陵地には山城や丘城がいくつも連なっていた。この枡形城をはじめ、小沢城、作延城、亀井城、有馬城、井田城、加瀬城。多摩丘陵の突端にあって、いずれも関東平野を一望できる格好の地につくられ、鎌倉幕府の北の守りを固めていた。とりわけ稲毛三郎重成が本拠を置いたこの枡形城は要所で、重成の没後、幾度となく争奪が繰り返されている。

城址の一隅にある「馬場あとも・・・」の碑は伊藤韋天が自作の句を刻んだもの。

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下記は川崎市教育委員会:枡形城跡より。

小田急線向ケ丘遊園駅の西南約800mの丘陵地に枡形(ますがた)山があります。山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような断崖で囲まれた要害の地をなしています。おそらく枡形山という地名は、こうした地形が枡の形に似ていることから名付けられたのでしょう。
枡形山は枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここが城であったことが文献からもうかがえます。
古くは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え、源頼朝の重臣として活躍した人物です。その後、室町時代の永正元年(1504)には、山内上杉氏の討伐を狙っていた北条早雲が軍勢を進めて枡形城に入りました。
そして、扇谷上杉朝良を助けて、山内上杉顕定の軍と多摩川の河原で戦い、激戦の末、山内上杉軍を破ったと『家長手記』や『松蔭私語』では記しています。また、先の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の永禄12年(1569)、甲斐(かい)の武将・武田信玄が小田原へ出兵してきた時、この土地の豪族であった横山式部少輔弘成は、枡形山に土塁を築いて後北条氏のために守りを固めたと伝えています。
こうしてみると、この枡形山は天然の要害をなした山城として、鎌倉時代から戦国時代の武将たちの目にとまるところとなり、たびたび利用されてきたものと考えられます。
現在、枡形城跡は生田緑地の中に公園として保存されています。山頂の広場には碑が建てられ、郷土の生んだ文学者・伊藤葦天の句が刻まれてます。「馬場あとも やかたあとも 秋の風」 

 

立派な展望台があった。形は山城の物見を模したものか。

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階段が工事中だったがエレベーターで上がることができた。

下は広場を見下ろした写真。桜の木もあった。

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西から北方向。右よりの、樹木の向こうの丘が、根岸古墳群。

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上の写真の中央部のアップ。左の山塊に雲取山があるはず。正面奥の三角形の山が気になった。

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東側は、関東平野を一望する素晴らしい眺めだった。

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風が強く寒かったが、しばらく見とれていた。

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ズームすれば新宿高層ビルと東京タワー。

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南東方向、緑地の先には溝の口のマンション群、5km弱先。左のビルは二子玉川のあたり。

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筑波山、スカイツリーや横浜ランドマークタワーも良く見えた。

残念ながら富士山は、丹沢の向こうに雲がかかっていて見えなかった。

がなんと、今度の日曜・月曜(2/8、2/9)は、この展望台から日の入りの「ダイヤモンド富士」が見られる! 2日間だけ入場時間を17:30まで延長するそうなので、ご近所の方はぜひ。

spot/diamondofuji

 

日本民家園側の広場入口には、中世山城風の立派な門があった。

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上記の門のそばの案内図。民家園の東口に向かうことにした。

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整備された散策路を降りていくと、雪の積もった藁葺き屋根が見えてくる。ところどころ地層が露出した場所があって、じっくり観察ができるようになっていた。

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 地層観察を促すカラフルな説明板。

「三色アイス軽石層・食べられません」「下末吉埋没土」「シモフリローム」「ゴマシオ軽石層」など、興味深い記述が盛り沢山だった。

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つづく。