墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

東国文化国際シンポジウム よみがえれ古墳人 ~金井東裏遺跡から発信された1500年前のメッセージ~ @銀座 2015年1月17日

群馬県の金井東裏遺跡で、2012年11月に発見された「甲(よろい)を着た古墳人」についてのシンポジウムを聴講した。

昨年2月に船橋市での講演を聴いてから自分にとって興味が高まっていた案件。

 

当シンポジウムのことは昨年知って申し込み、当選通知を受け取った。 

会場の銀座ブロッサムホールへ行ってその大きさ(900名収容)を見て、申し込み多数で抽選だったことを知って、さらに開場時間前で200名くらいの人の列を目にして、「甲を着た古墳人」の人気の高さを改めて実感した。

群馬県、県教育委員会、県歴史博物館、県埋蔵文化財調査事業団でつくる委員会の主催で上毛新聞社が共催。

 

プログラム概要は下記の通り。

・趣旨説明 金井東裏遺跡が語るもの【専修大学教授 土生田純之氏】

・特別講演 火山災害遺跡が語るものーポンペイの調査からー【文化庁長官 青柳正規氏】

・基調講演 金井東裏遺跡の調査と甲を着た古墳人【群馬県埋蔵文化財調査事業団 徳江秀夫氏】

・講演① 古人骨からよみがえる甲を着た古墳人の姿【九州大アジア埋蔵文化財研究センター長・九州大教授 田中良之氏】

・講演② 甲を着た古墳人の国 毛野国を俯瞰する【群馬大講師 右島和夫氏】

・講演③ 甲を着た古墳人時代の日本ー5世紀後半~6世紀前半ー【横浜市歴史博物館館長 鈴木靖民氏】

・講演④ 三国時代の半島と古墳時代の列島の交流に関する一断想【大韓民国国立中央博物館考古歴史部長 宋義政氏】

・シンポジウム「よみがえれ古墳人 ~金井東裏遺跡から発信された1500年前のメッセージ~」

 

シンポジウムを聴講したと始めに書きましたが、実は講演②を聴き終えたあたりから集中力がなくなり、シンポの前に退席させていただきました・・・抽選に漏れた方、申し訳ありません。

 

まずは金井東裏遺跡の概要を展示パネルから。(同時期に銀座の「ぐんまちゃん家」で開催されていた「写真で見る金井東裏遺跡(~1/19で終了)」の写真を含む)

 

・金井東裏遺跡の位置 榛名山の北東、吾妻川河岸段丘上にある。

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ここが6世紀の榛名山の噴火で、ポンペイのように埋まってしまった。

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その火砕流で埋まった溝の中で、甲冑を装着したまま前かがみで姿を現した古墳人。

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横から見たところ。左の後頭部は火砕流で削げてしまっている。顔の下からは「兜」が見つかった。

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お尻の方から見たところ。

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左は、甲(よろい)のみが出土。

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・はじめの土生田氏による趣旨説明では、この遺跡が古墳人が出たということだけでなく、生産設備・住居・古墳がセットになっており、古代の人々の状況がバラバラでなく全体として捉えられる遺跡であることが強調された。

他の事例では、奈良・葛城の南郷遺跡群しかなかったが、それも現在は埋め戻されてしまっていて、金井東裏遺跡は、今後の検証によって「新しいことがわかる貴重な遺跡」であるとのこと。

また、発掘物からは「人の移動」が示唆されるが、移動というものは一方的に起こるものではなく、「必ず双方向になること」とコメントされた。

 

・青柳氏のパートは、「長官」というより「現場監督」のような解説。50分の時間きっかりに、多くの情報を非常にわかりやすく説明いただいた。

現在ヴェスビオ山の北側山麓ポンペイは南山麓)で調査中の遺跡例とともに、噴火遺跡が多くの情報量を持つことを語られた。

ただし、情報として整えるためには、埋まった状況を詳細に推定する~何で(泥流か空からの礫か火砕流か)、どのように(一挙にか段階的にか)を、遺物の変形・変質具合から衝撃度や温度を見計らうことが必要とのこと。

それらを分析することで歴史だけでなく、噴火列島に住む今の自分たちが、これから社会をどのように構想するかのヒントになると発言された。

本筋ではないが、人骨が0.5gあると、年代測定だけでなく食性や地質金属の影響などさまざまなことがわかるということを知り、さらにこのあとの田中氏のパートで具体的な話が聴けて科学の進歩を実感した。

 

・徳江氏のパートでは、より「古墳人」に寄った内容。着装していた甲の小札(こざね)が800~1000枚あったことや、日本初出例の骨製小札があったこと、近くで出土した鉄矛には直弧文装飾の鹿角製飾りがあったことや、祭祀遺構からは1000個以上の土器が発掘されたこと、臼玉(うすだま)は1万個にもなること、一度目の噴火による堆積物の上を多くの人や馬が歩いた足跡が残っていること等々、遺跡の貴重性と重要性が覗える話を聴けた。

 

・田中氏のパートは、人骨が持つ情報量の多さに驚かされる内容だった。

 甲を着た古墳人(40代前半、男性)の骨は渡来系の形質を持ち、一方ですぐ近くで発見された女性(首飾りの古墳人、30代前半)は、鼻幅が広くあごがしっかりする東日本の在地の形質を持つそうだ。確かにそう言われて写真を見るとわかる。

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また、男性の上半身の骨の筋肉の付き具合の跡からは弓を引いていたであろう(しかも左ききで)ことがわかり、下半身からは中腰で踏ん張る筋肉の発達、つまり乗馬をしていたことがわかるそうだ。

女性人骨の方は、上肢も下肢も発達しているので、きっちり労働していた人(=姫様ではない)ことが推測されるという。

また、骨のエナメル質に含まれる「ストロンチウム同位体」からは幼少期を暮らした地域までわかるそうで、男女二人とも「白亜紀の地盤で暮らしていたこと=群馬地元育ちではない)そうだ。

白亜紀の地盤はどこにあたるかというと、伊那谷のあたりとのこと。

つまり、伊那谷で育った二人が群馬にやってきた、それも渡来系と在地系とのペアで、ということになる!

一級の推理小説を読んでいるような内容だった。

 

・右島氏は関東全域、東山道全体を見渡しての金井遺跡の位置づけを語られた。

弥生時代の遺跡は希薄だが、古墳時代前期から人工水路が築かれ給排水の技術によって平野部が開発され、利根川という大河川を通じて海とつながっていたことにより交流も盛んだった地であることが示された。

大開発をリードした首長層は4世紀ごろは東の太田市周辺(藤本観音山古墳・前方後円墳117m・現在は足利市~宝泉茶臼山古墳前方後円墳162m)と西の前橋周辺(前橋八幡山古墳・前方後円墳130m~高崎市浅間山古墳・前方後円墳174m)に分かれていたものが、統合されていって5世紀前半に太田天神山古墳(前方後円墳・210m)が現れる。

金井東裏遺跡に人が住み始めた5世紀後半には、上毛野の保渡田古墳群、下毛野の摩利支天古墳・琵琶塚古墳、そして利根川の南に埼玉古墳群が同時期に築造される。

これらの古墳群の位置は全て古東山道ルート上にあること、さらに、東山道上の西に位置する長野県飯田市周辺の古墳群の築造も同じ時期で馬の生産の開始と重なることなど、古代の人が広範囲で活発に動いている様相がわかった。

 

その後のお話はさらに朝鮮半島に広がっていくところだったが、お尻が痛くなったのと、集中力が途切れてしまったのとで、途中退出させていただきました。

 

ご講演いただいた先生方には、この場を借りて御礼申し上げます。大変勉強になりました。勝手に報告を書かせていただいて恐縮であり、当方の認識の誤り聞き違いもあると思いますので、当ブログを見る機会がありましたら、何なりとご指摘くだされば幸いです(コメント欄、非公開にもできます)

また準備いただいた主催者・関係者のみなさま、貴重な機会を設けていただき、誠にありがとうございました。

 

その後立ち寄った、三原橋交差点角の「ぐんまちゃん家」

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2階スペースでの写真展(既に終了)を見て帰った。

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