墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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平成26年度横浜の遺跡展「古墳の出現-横浜の集落遺跡と前期古墳ー」、及び関連講演会「ヤマタイ国時代の東日本」 @横浜市歴史博物館

前回のつづき。

大塚・歳勝土遺跡を歩き回った後は、博物館の企画展を見て、講演会を聴講した。

 

企画展「古墳の出現」は残念ながら撮影不可だった(1/12で既に終了)

埋蔵文化財センターによる、港北ニュータウン地域の遺跡の平成26年度調査成果が、出土資料とともに詳しく解説展示される充実した内容。この日は講演会があったからか、遺跡展示会としては珍しく人垣ができるほどの盛況だった。

展示テーマは「横浜市北部の弥生時代後期から古墳時代前期にかけての地域統合の様子を、土器・集落・墳墓から見て」いくというものだった。

 

このあとに聴講した講演会の第一部「ヤマタイ国時代の東日本-古墳出現期の神奈川ー (公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター 古屋紀之氏」とほぼ重なる内容。下記は古屋氏の講演レジュメ1頁目より部分転載。

弥生時代後期の1~2世紀ごろには、東に東京湾岸系、西に中部高地系というように、二つの異なる集団が暮らしていました。このころは南関東地方にも鉄器が普及し、大規模な灌漑水田を行い、遠距離交易によって武器やアクセサリーなどの希少財も手に入れていたようです。しかし、西の中部高地系の集団は2世紀後半ごろに急激に衰退し、一方、東京湾岸系の人々は、日吉地域に政治的な核を置いて地域を統合していったようです。港北ニュータウンの北川谷(きたがわやと)遺跡群の分析からは、弥生時代後期の伝統的な集落がそのまま古墳時代前期へ継続している様子が見てとれます。

近年の研究では、弥生時代後期の地域圏と南武蔵の前期古墳の分布が深く関係することが指摘されています。横浜市周辺も「邪馬台国」と前後する時期に一つのまとまりを形成していたことがわかります。

 

下の地図は「展示解説シート」から(古屋氏による力作と伺った)

地図のが中部高地系の「朝光寺原式土器」が出土主体の遺跡エリアで、が東京湾岸系主体のエリア、点線の赤丸が弥生時代終末期以降に、それまで朝光寺原式から東京湾岸に変わっていったとなる。

中央やや左に現在地(大塚・歳勝土遺跡)があって、ここがまさに「変わっていった境界あたり」となる。

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ちなみに地図右上になる現在の慶大日吉キャンパス近くの台地先端に、神奈川県最大級だった加瀬白山(かせしろやま)古墳や観音松古墳(どちらも90m級、どちらも消滅)があった。「古墳の出現」展においては写真パネルでの説明があり大変興味深かった。

 

多摩丘陵の入り組んだ谷戸に中部高地系の山の民が暮らしていたところへも、広い平地に東京湾岸系(久が原式系~現在の東京湾東岸千葉も含め広く分布)の人々が占めていったことを遺物が語っている。

ただし、一挙に変わったのではなく徐々に変わって行った様子があることから「征服・屈服」ではなく「受容」されていった流れがあるようだ。

 

展示も講演もエキサイティングな内容でした。

 

当日のもうひとつの講演「ヤマタイ国時代の東日本 ー古墳出現期のかながわー 神奈川県旭高校 西川修一先生」は、12月に葛飾区でお聞きした内容と重なったが、より理解が深まったように思いました。


 

古屋様、西川様、大変勉強になりました。勝手に書かせていただいて恐縮であり、当方の認識の誤り聞き違いもあると思いますので、当ブログを見る機会がありましたら、何なりとご指摘くだされば幸いです(コメント欄、非公開にもできます)

また準備いただいた関係者のみなさま、貴重な機会を設けていただき、誠にありがとうございました。

 

以下は常設展示(大人400円)

中央の「調べ物コーナー」の周りに、各時代ごとにまとまった展示がある。

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上矢部町富士山古墳(戸塚区:円墳・径約25m、6世紀半ば)出土の盾を持って奉仕する人。

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同古墳出土の馬や水鳥。

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どちらも1年半ぶりの再会。


 

今回は弥生時代の土器にも強く惹かれた。

歳勝土遺跡出土の土器棺

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中部高地系の朝光寺原式土器(青葉区 朝光寺原遺跡出土)

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東京湾岸系の久が原式土器(横浜市内各地出土)

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弥生時代の横浜地区の立体地図。東方向からの眺め。一番右の谷筋に大塚・歳勝土遺跡がある。

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中央やや左の半島の付け根にある「三殿台遺跡」も弥生時代の国指定史跡。

横浜市磯子区にある、縄文~古墳時代にわたる広さ1haの集落遺跡で約250軒の竪穴式住居跡があり、その大部分が弥生時代のものだそうだ。


規模は大塚・歳勝土遺跡の3.3haの約3分の1、復元住居は3棟(弥生時代は1棟)だが、弥生時代住居跡は約200軒だった。大塚遺跡の竪穴住居跡27軒+掘立柱建物跡10棟、の5倍ほどの数になるが、なぜ密度にこんな差があるのだろう(いずれ調べてみたい、まずは行ってみないと・・・)

 

下は少し広範囲の弥生時代の環濠集落の分布図(上が北)

現在の横浜、新横浜と大塚・歳勝土遺跡との位置関係がよくわかる。

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講演会が終わって外に出るともう夕方だった。

ショッピングセンターの巨大駐車場。右奥が大塚・歳勝土遺跡。

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折角なので、駐車場の屋上階から遺跡を眺めてみた。住居址群のあたり。

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南側の竹やぶ。かつてはこのような丘がずっと広がっていたのだろう。

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上とは対照的な、センター北駅方向。かつて開発前の大塚・歳勝土遺跡は、あの観覧車のあたりまで広がっていたとの説明があるブログを、後でお見かけした。

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秦野のある西方向、丹沢山地・大山方面に沈む夕日。

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センター北駅側から見たショッピングセンター。大変賑わっていた。

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上の歩道橋から見た横浜市歴史博物館(正面奥の三角屋根)

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センター北駅の反対側出口には別のショッピングセンターが。次回は観覧車からの眺めも見たい。

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港北ニュータウン全体の人口は18万人になるそうだ。

神奈川県 港北ニュータウン(地区南部)地区情報|住宅事業用地・分譲用地情報|URハウジングロケーションサイト

 

以上、横浜市歴史博物館シリーズでした。