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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

千葉市埋蔵文化財調査センター 千葉市中央区南生実町

前回のつづき。 

船橋界隈を歩いたあとは車検に出していた車をピックアップして千葉市内最大の前方後円墳である大覚寺古墳を目指した。

京葉道路に乗って蘇我ICで降り、5分ほどで千葉市埋蔵文化財調査センターに着く。

センターの目の前に目指す古墳があるが、まずは館内を見学。

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休館日は祝日と年末年始のみ。9:00~17:15開館。駐車場完備。

電車なら、京成千原線学園前駅で下車して徒歩10分。

 

館内にあった周辺地図。古墳が点在するエリアにある。

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上記の地図の左端の大きな丸は、すでに失われた七廻塚古墳

直径54m、高さ9mの円墳で、5世紀頃の築造。

昭和33年に東小学校(旧生浜中学校)の校庭拡張のため発掘調査後に削平された。
副葬品には優美な幾何学的な模様が刻まれた石釧(いしくしろ:腕輪)が出て、国の所有となったが、ここで保管されていれる。

他にも滑石製の装飾模造品や青銅製鏡、鉄製武具や農具など多くの副葬品が出土している。

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こちらが石釧。直径は16.5cm。

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石枕の周囲を飾っていた立花(りっか)

2つの勾玉を背中合わせにしばったような形をしている。

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七廻塚古墳の調査中の写真もあった。

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石釧などの出土状況。

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立花の出土状況。

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別の場所、鎌取場台遺跡2号古墳(4号墳?)の発掘状況。版築の様子がわかる。

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切り取られたケーキのようだが、この感じだと調査後削平されたのでは・・・

平成20年度出土遺物巡回展「房総発掘ものがたり ーおゆみ野編ー」の資料(千葉県教育振興財団発行、WEB上にpdf資料あり)には、31頁に当古墳の巨大な横穴式石室の写真と発掘前の写真も掲載されている。

 

これから向かう大覚寺古墳の解説もあった。

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人物型埴輪(女子) 6世紀後半 古墳時代後期

伝中原古墳群(緑区平山町)出土

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オリジナル部分に「胸当て」が刻まれている。

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古墳時代のみならず、各時代の遺物が展示されている。

縄文時代の土偶も。

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こちらは3cm×2cmほどの小さなものだが、拡大したパネル写真ではギリシア彫像のよう。ガラスからの距離が遠すぎてよくわからなかった。

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滋賀県の相谷熊原土偶(13000年前) ほどグラマラスではないですが。


 

各種土偶(千葉市出土)もあります。

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山形土偶の「山形」は地名ではなく、山形の頭の形態からの命名。縄文時代後期中葉の関東地方でさかんにつくられた。

明治大学のサイト→ 山形土偶

ミミズク土偶の名も形態から来ており、大きな目、不思議な髪形、大きな耳飾りなどが特徴。縄文後期後葉から晩期前葉にかけてこちらも関東地方を中心につくられた。

こちらも明治大学のサイト→ ミミズク土偶

 

こちらはレプリカコーナー。有名どころが所狭しと並んでいた。

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蹲座(正座)土偶というのは始めて見た(青森県むつ市大畑町・二枚橋遺跡、縄文晩期)

体育座りの土偶もあった(青森県三戸郡田子市・野面平遺跡、縄文晩期)

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展示室には復元竪穴式住居もある。

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縄文時代から平安時代までの竪穴住居の変遷の解説。

竪穴住居の出現は獲物を追って移動する生活から脱し、住みやすい土地を選んで定住したことを意味します。餅ヶ崎遺跡ではやく8000年前の竪穴住居址が発見されていますが、人々が定住し集落を形成するのは縄文時代前期になってからと考えられています。中期後半になると加曾利貝塚に代表される大きな集落が出現し竪穴住居の数も増えていきます。竪穴の形は初期のものは長方形で浅く、縄文時代中・後期では直径4~5mのものが一般的になります。

弥生時代には楕円や隅丸方形のものが多く、この頃から住居に大小の差が生じてきます。

古墳時代の竪穴は正方形となり、後期になるとそのれまでの炉に変わってカマドが作られます。

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須和田遺跡の復元遺構のありし日の姿。

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自分が行ったときは上ものはなかった。焼けてしまったのか。


 

千葉市域の立体マップ(遺跡編)もあった。中央やや下の横長白帯表示が当センターの位置。下総台地の端っこになる。

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入館したときに先客の方と入れ替わりになり、貸しきり状態でじっくり見学できた。

このあと大覚寺古墳へ。