墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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「古墳出現期社会を土器交流拠点から読み解く ー日本列島大交流時代ー」 講師:北島大輔氏(山口市教育委員会)

12/6土曜日の午後、古墳時代に関しての講演会を聴講した。

会場は大岡山の東京工業大学・蔵前会館。会館の前には、タモリ倶楽部にも出演された東京藝術大学学長の宮沢亮平氏の制作によるイルカとツバメ(東工大のシンボルマーク)をモチーフにした像が置かれていた。

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講演会の主催は、東アジアの古代文化を考える会。会員は1300円、自分は非会員なので1500円。

 

講師は山口市教育委員会の北島大輔氏。

14時から間に10分休憩を挟んで16時半まで、非常に濃い興味深いお話をたっぷり聞かせていただいた。「素人の聞きかじり」ですが以下簡単に内容をまとめてみました。

 

北島氏は、日本考古学会の重鎮である大塚初重先生の薫陶を受けた方であり、あの加茂岩倉遺跡の発掘を担当された方でもある。古墳時代を領域としつつ古墳そのものを研究対象とするのではなく、土器などの出土物から当時の地域社会を探っている。つまり「古墳のプロ」というより「遺跡(土器)のプロ」

土器といっても古墳の墳丘に並べられた埴輪や棺とともに埋葬された副葬品ではなく、古墳時代の豪族居館や集落の住居跡から出土する甕や壺の弥生式土器からの流れを汲む一般の土器。

これらの土器は膨らみ形状や口縁部(後円部に聞こえてしまいがち)の断面形状などから、北陸系、山陰系、畿内系、西日本系、伊勢系、西濃尾系、尾張系、駿河系、東遠江系、南関東系など、作られた地域によって異なる特徴を備える。

素材である土成分の分析技術も進んでいるので、例えば神奈川県綾瀬の神崎遺跡から出る土器は、形状は豊橋・浜名湖系だが土は地元産であり、その集落の民は浜名湖あたりから移住してきた、と推定できることになる。

 

講演タイトルの「古墳出現期」は”考古学業界用語”で、弥生時代終末期と古墳時代初期を合わせた時代区分。

日本各地の古墳出現期の遺跡では、神崎遺跡のような単系統の土器で構成される遺跡ばかりではなく、複数の系統の土器が出土する遺跡が数多くある。

北九州や纏向が2大エリアだが、他にも出雲の神門水海遺跡や、吉備の津寺遺跡、伊勢の雲出川流域の島貫遺跡と貝蔵・片部遺跡、三河の鹿乗川流域遺跡があり、古東海道沿いには浜松、沼津、藤沢、富津、そして市原の国分寺台遺跡群へと点在する。

北島氏はこれら複数の系統の土器が出土する場所は、古代の人々の交流拠点ではなかったかとの説を展開する。大変興味深いのは、その交流拠点の数々が、大きな古墳群がある場所と、重なりあうこと。

 

古東海道の”土器交流拠点”の位置をよくみると沼津や藤沢など、大きな半島の西の付け根に多く見られる。その理由は、当時の人々の主な交通手段が船(帆船ではなく漕ぐ船)であり、海流が大きく影響したからではないかとのことだった。

丸木舟から進化した準構造船は、銅鐸にも描かれているように弥生時代中期から存在し、古墳時代には埴輪に描かれたり形象埴輪として表現されており、船を用いた物資と人の交流は弥生時代からあったと考えられる。

各拠点の位置は河口でもあり、川が運んだ土砂が堆積してできた潟湖(せきこ)によって停泊可能な港の機能を持つとともに、川の交通路と海の交通路との結節点として栄えていたようだ。

 

なぜ交流があったのかについては、北島氏は経済的理由つまり「物資のニーズ」が原動力となったのではと説かれた。

何が運ばれていたかは、モノが残らないので想像の範囲になってしまう。盛大なフリーマーケットが開かれても翌日には何も残らないように、交流があった証拠は残りにくい。このあたりは聴講者も議論に加わって、「鉄だ」「黒曜石だ」「玉だ」「食べ物だ」「資材としての木だ」「馬だ」「塩だ」と活発なやりとり。

北島氏から「そのひとつ」として紹介されたのが、薬としても使われたらしい「水銀朱」

大阪府亀井遺跡から出土した、先端に朱のついた石杵とともに何種類もの石の分銅(重さは整数倍)の写真事例には驚いた。

 

このような交流の拠点は、遺跡の状況から、弥生時代から大きな集落であったことが確認され、また、多系統の土器の出土状況から、拠点同士で交流のネットワークを築いていたと考えられる。

このようなネットワークがあったからこそ「新たな」前方後円墳というスタイルが出来た時にあっという間に全国に伝播したのではないか、

それは例えて言うなら、1300年後の戦国の群雄割拠の時代に「天守+石垣」というモデルができるとあっという間に全国に広まったように、という北島氏の話はとてもワクワクするストーリーだった。

 

このストーリーでは「前方後円墳体制」はヤマト王権が力で拡大したというよりも、全国のネットワークが前方後円墳体制を推し進めたというベクトルになる。

 

とてもエキサイティングな話でした。

古東海道が、伊勢が起点となり、千葉県の市原(国分寺台)が終着点になるという仮説も非常に興味深く聞かせていたできました。

 

講師の北島様、当方の認識の誤り聞き違いもあると思いますので、もしこのブログを見る機会がありましたら、ご指摘くだされば幸いです。(コメント欄、非公開にもできます)

また準備いただいた東アジアの古代文化を考える会のみなさま、貴重な機会を設けていただき、誠にありがとうございました。