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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

武者塚古墳(石室公開) 茨城県土浦市 市指定史跡(出土物は重要文化財)

茨城県の古墳、寺社、遺跡、街歩き 現地説明会

11/15土曜日、茨城県土浦で、普段は非公開の古墳の特別公開があると聞き行ってみた。公開時間は13:30~16:00で現場での解説が14時とあった。

現地の状況がわからないので早めに出たら13時前に到着。常磐道の土浦北ICから車で5分ほどの場所だが、もし案内板(手作り)がなかったら相当迷ったろう。WEB案内には「カーナビで土浦市上坂田1153と入力ください」とあったが、自分の車のカーナビは10年以上前のものでなにも出なかった。

 

細い道を進むと、畑の真ん中に武者塚古墳展示施設があった。

開始時間までに集まった人数は20人弱。ほとんど土浦、つくばナンバーの地元の方々だった。

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北東方向には筑波山が近かった。

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史跡としては「土浦市指定」だが、出土物は今年(2014)の8月21日に国の重要文化財に指定されたばかり。

説明板は古墳のものと出土物のもので2枚。どちらも真新しい。

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土浦市指定史跡 武者塚古墳

武者塚古墳は、桜川左岸の台地上に造られた7世紀(古墳時代終末期)の古墳です。1983年(昭和58年)、旧新治村の村史編纂事業として行われた発掘調査によってその全容が明らかになりました。発掘調査は筑波大学の調査団によって行われ、古代人の髪型である美豆良(みずら)に結われた頭髪といった、学術的価値の高い遺物が数多く出土し大きな話題となりました。

現在、石室は覆屋(おおいや)の中に保存されており、出土品は2014(平成26)年に国の重要文化財に指定されました。

 

武者塚古墳の墳丘と石室

武者塚古墳が発掘調査された時、すでに墳丘はなく平らな状態でした。もともとあまり高い墳丘は造られていなかったようです。発掘調査によって、古墳の周りに巡らせた周溝が発見されました周溝の形態と規模から、直径23mの円墳と推定されています。

石室は遺体が安置されていた玄室と、副葬品を納めた前室からなり、箱式石棺と横穴式石室を折衷したような独特の形態をしています。本来、横穴式石室は地上に造られ、横から出入りできるようになっています。これに対して、武者塚古墳の石室は地下に造られ、前室の蓋石を外して出入りするように作られていることが特徴です。平成26年 土浦市教育委員会

 

説明板の左上図のアップ。細いトレンチを掘り、細いスリット群の向こう側に周溝全体像を見透かして墳形を推定する。

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案内板の左下実測図のアップ。展開図のようになっているが、土を掘り下げて石室(玄室+前室)がつくられていることがわかる(左の絵を90度右に回転してみるとわかりやすい。石室図のスケールは右下)

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下記の2つの写真は、上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)発行の「武者塚古墳とその時代」より。

1枚目は、筑波山と桜川、武者塚古墳と霞ケ浦との位置関係

石室石材は筑波山の麓で産出する「片岩」

千葉の古墳でも多く使われているが、この桜川を下ってきたのだろう。

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2枚目は武者塚古墳(左側星印)周辺の新治台地(標高29m)縁辺に分布する古墳群の様子。

縄文時代貝塚もあり、さらに古墳もあるということは千葉と似た状況か。

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こちらは、現地の出土品の説明板。

大きな特徴は、玄室から被葬者の美豆良(みずら)に編んだ髪の毛そのものが、前室からは柄杓のような金属の道具などが出たこと。これらが重文に指定された。

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説明板の右には「武者塚2号墳」から出土した箱形石棺が移設展示されていた。

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茨城県内で広くみられる典型的な埋葬施設。石の表面では雲母の粒がキラキラ輝いていた。しっとりとした手触りの表面だった。

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13:30になり解説がはじまる。説明板の周囲で少し話があったあと、いよいよ中にはいる。

普段はこのように金網越しに見る。ガラス窓はなく金網だけだが、距離があってよくわからない。

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覆屋のドアが開き、階段を2mくらい降り、石室の周囲という場で聞く解説はまさに臨場感があふれ、期待したとおりの中身の濃い体験だった。

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玄室長2.04m、前室長1.07mの大きさは一般的な箱式石棺の1.5倍の大きさ

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下の写真は前室の床の部分。写真右手の玄室へは60cmほど降りるてはいるようになっている。

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 フラッシュで撮った玄室の中。石室内は上からの写真撮影のみ。

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下の写真のように石室を囲んでお話を伺う。

もともと畑だった場所(施設は畑の真ん中にある)だが、この上だけ作物の育ちが悪かった場所で、おそらくゴボウなど下に根をはる作物を植えるために深く耕していたら大きな石にあたり、周囲に同様の例もあったので調べてみたら、貴重な「未盗掘」の石室だった。

石材の間の粘土の目張りで水や土の侵入を防げだことや、石室が地中深くにあって気温や湿度が一定に保たれたことも、副葬品等がよい状態で残る要因となった。

 

被葬者は成人5、幼児1の計6人(初めに蓋を開けたときは異様な匂いも残っていたらしい)

1度に6人を納めたのではなく、前室の蓋を何度も開ける形で追葬されたと考えられるそうだが、石室の上に墳丘を築いたら、いくら前室の天井石が小さ目だとは言え、次の人を納めるのは難しいと思うがどうなのだろう。

墳丘の高さはあまりなかったと考えられている。

後世に盗掘に合わないためにこのやり方を考えたとしたら頭がいい。

だが、もともと古墳は「見せるためのモニュメント」としての意味合いもあったはずで、当初の地上部分がどのようだったかはとても興味をそそられる。

11/9には「武者塚古墳とその時代」というシンポジウムが行われていたようだが、そのあたりのお話はあったのだろうか・・・

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このような形の石室は全国でも非常に珍しく、同じく土浦の烏山団地の古墳の例しかないようだ。

 

下は発掘時の地面の高さを手で示されている。

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前室の石蓋は、人々の輪の外で待機していた。普段は蓋として載っているのだろうか。

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 このあとは、出土品が展示されている上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館) に寄った。

 

今回の石室公開は、出土品が重要文化財指定になって、特別展が開催されたことによるもの。計3日の公開日があり、最後の回は11月23日(日)になるので、ご興味があればぜひ現地を訪ねることをおすすめします(駐車場は敷地の外にも用意されていました)

武者塚古墳の石室を公開します!(上高津貝塚) | 土浦市公式ホームページ