墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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旧磯野家住宅・銅御殿(あかがねごてん) 重要文化財 @文京区小石川

こちらも東京文化財ウィークの特別公開物件。

パンフの説明は次のとおり。

「実業家の磯野敬が建設した近代和風住宅です。主屋の屋根と外壁に銅板が張りめぐらされている外観から『銅御殿』と 呼ばれています。明治末から大正初期にかけての和風建築の粋を凝らした技術の高い建築作品です」

 

6月に近くに来た際、湯立坂の脇にある門(重要文化財)と、チラッと見える建物に惹かれた(下記エントリーの最後の写真、旧磯野家住宅の説明板も転載)

 

葉書で応募したら当選したので時間休を取って行った。20名の枠に100人以上の応募があったとのこと。運が良かった。

 

銅御殿は現在は(財)大谷美術館が所有。ホテルニューオータニの大谷家。

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表札のすぐ上で丸太同士が組み合わさっているように見えるが、横方向の貫の丸太は実際にはつながっていないらしい。が、大迫力。縦の門柱はヒノキで、門扉はクスノキの一枚板。

 

主屋は明治末期に着工、大正元年(1912)竣工。表門は大正2年(1913)竣工。

施主の磯野敬(いそのけい)は千葉県夷隅の出身で、日本全国で植林事業を展開して広大な山林を所有し山林王と呼ばれていたそう。

 

それを新潟の石油王、中野貫一が譲り受ける(新潟に美術館がある)

 中野邸美術館公式ホームページ

 

さらに戦後に大谷哲平(ニューオータニ創業者の大谷米太郎のご子息)が買い受けた。

ちなみに大谷米太郎(1881-1968)は富山県から31歳で上京、日雇い人夫から力士(幕下筆頭)になるが、その後、酒屋を経て、鉄鋼圧延用のロール工場を作って大谷重工業に発展させ満州にも進出、鉄鋼王と呼ばれる。戦後は星製薬を傘下に収めて工場跡地にTOCを建てた(完成は没後) 東京オリンピックの開催決定後に(頼まれて)ホテルニューオータニを建設したがホテル開業後は大谷重工業の不振で社長を退いた、という方(Wikipediaの内容を圧縮)

 

TOCと繋がっていたとは(←事務所が近所にあることからの個人的な感慨です。続きは文末に)

 

 下の写真は門を内側から見たところ。表からでも同じだが、軒の丸太列のカーブが美しい(製材して直径を揃えたのではなく、同じような直径の真っ直ぐな材を集めてきたところに凄みがある)

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門から玄関までのアプローチには各所に立派な石が配される。切り通しに流れる川を遡っていくようなイメージでつくられていて、奥へ進んで初めて建物全貌が見える。

 

まさに御殿のような建物。

反りのある玄関屋根と主屋屋根の膨らみのカーブ(てりとむくり)が呼応する。

屋根を銅で葺くのは地震対策(軽い)、壁を銅とするのは防火対策。竣工時は金閣寺のように全体が金ピカに光っていたはずだが、それは目立つためではなく、防災という理由があってのことだった。

実際に竣工11年後の関東大震災や東京空襲をくぐりぬけ、3.11にも耐えている。

 

玄関の4本の柱は四角柱だが、中心部に膨らみを持たせたエンタシスの仕様になっている。

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玄関の軒は放射状の扇垂木になっている。灯りも当初のもの。

 

下記の欄間のような部分も柱に呼応するように一本一本が「エンタシス」になっている。このような細かい意匠に現れている神経の注がれ方が、建物全体に及んでいる。

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正面玄関脇の入口で靴を脱ぎ、庭に面したお座敷の畳敷きの縁側部分で、大谷利勝館長(大谷哲平氏のご子息)から直接お話を伺えた。建物のつくりの話から、昭和36年に大工の棟梁・北見米造氏に大谷哲平氏とともに会って聞いた話まで、20分ほど大変興味深く聴かせていただいた。

「北見米造は当時(つまり明治30年代末頃)まだ20歳の”若造”であったが、イギリス皇太子の来日前に越後屋三越(三越本店)で茶室をつくる仕事に加わり、そのときの仕事ぶりが磯野氏の目にとまって棟梁に抜擢された。

施主・磯野氏の注文は、金と時間に制限かけずに、地震や火災に強い建物を作れ、つまりそのためなら、いくらかかってもよい、いつまでかかってもよい、ということだった。

棟梁はまず材木集めに7年かけた。沢山使われているヒノキは木曽の御料林を見に行って一山じゃないと売れないと言われたので一山買った上で選び抜いた。他にも全国各地から銘木を集めた。

また大工は、一般の仕事はしないという当時の名工が集まった。建築中は庭に鍛冶屋も常駐し、部屋の四隅に組み入れる鎹(かすがい)を作っていたという。

銅御殿を手掛けた後に北見氏が残した仕事は少なく、高村光雲の弟子入りして彫刻家になり長野善光寺に3つある門の真ん中の門の仁王像を作っている」

 

最初に手掛けた仕事が、これ以上のものはできない最高の仕事になってしまった、ということなのだろうか・・・

ちなみに、北見氏は大谷哲平氏に、自分が死んで50年したら銅御殿は国宝になる、とも語ったそうだ。

 

さらに館長のお話は部屋の説明になった。

・北向きの庭は、陽光に顔を向ける花(梅や桜もある)を南から見るため

・ガラス戸の大きな窓ガラスは凹凸のあるオリジナル(ベルギー製)で、旧古河邸では1部屋1枚しかないほど貴重なものが揃って残っている。

・板戸や障子には屋久杉が、床柱や違い棚、欄間には御蔵島の桑の木が使われているが、今では入手不能。

・座敷の壁はオリジナル。クラックがないのは布材と壁材が11層に合わさっているからで地震でもしなるようになっている。北見棟梁からは塗り変えるな(なぜなら普通の壁材を塗るとそこにクラックがはいる)と言われたそう。

 

貴重な文化財の「中にいる」ことを実感した。

 

大谷館長は「銅御殿」という本も出されている。

 

残念ながら撮影は外観のみとのことだったが、3階から外の眺めは許可をいただいた。

落ち着いた色の銅の屋根(50年経って葺きかえられている)が周囲の緑に溶け込んでいた。

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ツアーは1時間程で終了した。

 

大谷館長をはじめ、大谷美術館の関係者のみなさま、大変貴重な文化財を公開・説明していただき、誠にありがとうございました。竣工は大正元年とはいえ、明治の(というより江戸時代からの)日本の技術の粋を「実感」することができました。

なお拙文に、誤り等ございましたら、指摘いただければ幸いです(コメント欄、非公開にもできます)

 

※後日、五反田TOCにて。

正面入り口、いつもは見過ごしていた胸像(振り子時計の左)

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目のあたりがお孫さんの大谷利勝館長に似ているように思いました。

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