前回のつづき。
日の出前の琵琶湖を見たところで早朝散歩をしている方に古墳の場所を聞いたら、すぐ横に石段があると教えていただいた。
「もう少し明るくなってからの方がいいわね」と言われたが、空は明るくなってきているので、そのまま進んだ。すぐに石段があり説明板もあった。
・茶臼山古墳 前方後円墳 全長122m 4世紀末~5世紀頃
下記に説明板を転記。
史跡 茶臼山古墳 大正10年3月3日制定
この古墳は全長約122m、後円部の径約70m、その高さ約13m、前方部の高さ5.5~8.5m、その幅22.5mを計る。近江で第2位、湖南地方では最大規模を誇る4世紀末~5世紀ごろの前方後円墳である。
前方後円墳とは、上空から見ると鍵穴形をしている古墳で、葬られた人の社会的地位は円墳や方墳の被葬者より高かったと考えるのが通常である。また後円部に埋葬部があり、前方部は儀式・まつりごとの場であるとするのが一般的である。
この古墳の前方部の高さは、後円部より低く広場状を呈している。また前方部と後円部のつなぎの部分は、ゆるやかなスロープとなっており、こうした前方後円墳の本来の姿をよくとどめている。
従って、この古墳は古墳時代前半期における近江を代表する首長の墓であり、まつりごとの場であるということができる。
墳丘斜面には石が葺かれ、後円部墳頂にはかつて円筒埴輪や形象埴輪が並べられ、古墳をかざっていたようである。
平成元年3月 滋賀県教育委員会
大きな実測図もあってわかりやすい。現在地は右端になる。
説明板はもうひとつあったが、読んで驚いた。写真の下に一応転記。
・葬り塚
667年に天智天皇が新しく大津に都を開いたが、天皇が亡くなった後672年に壬申の乱がおこった。
これは天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)と天皇の弟大海人皇子(のち天武天皇)の争いで瀬田川を挟んで大激戦が展開した。
戦いは近江朝廷軍(弘文天皇)の敗北となり、大友皇子は粟津山前(小茶臼山)に逃れ矢創を負っておられたので7月23日自ら縊れて崩御された。25才在位僅か8ヶ月であった。最期まで陪従していた物部連麿、赤田常世、赤田彦継など6名が皇子の遺体を大津宮の大茶臼山に葬り自らもその場で自刃した。
現在、葬り塚として、大友皇子とその子供、皇子に付き添っていた舎人達を葬ったという5コの小さな塚(葬り塚)が秋葉神社の奥にある茶臼山古墳の後円部の頂に残されています。右手奥の塚が大友皇子の子供と言い伝えられている大友与多王の墓と言われている。 大津東ロータリークラブ 参考文献:「日本書記」天武天皇紀、「瀬田の唐橋と周辺」建部神社 2011年10月
さすが近畿地方。いきなり歴史の舞台に来てしまったという印象。
写真で撮ると明るいが周囲は木々で鬱蒼として薄暗く、足元の石段を確かめながら墳丘へ。前方部の先端に鳥居があって中心に神社があった。
秋葉神社にお参りさせていただく。
神社の裏手から後円部へスロープを上がる。説明板を読んでしまったせいか足取りが重くなった。いつもは墳丘に上がらせていただくと清々しい気を感じるが、このときは早く写真を撮って戻りたいという気になっていた。
さきほど散歩の方に明るくなってからの方がよいと言われた意味がよくわかった。
後円部墳丘。周囲の遠望はない。下の写真が中心にあった大友皇子?の塚。5つの塚は同様に小さなつくりのものだった。
急いで数枚写真を撮らせていただいて、すぐに降りはじめる。
さきほどの鳥居のところで朝日が差してきた。
美しい朝日を浴びて、心も落ち着いた。
後から調べたら古墳の標高は155mとのこと。
琵琶湖の標高は84.3m(Wikipediaより)なので比高差約70mになる。
前方部の鳥居へは北側からもうひとつの上り道があった。上り口の鳥居には秋葉神社の扁額があった。
こちらには昭和47年に大津市経済部観光課が作成した説明板も残っていた。
茶臼山古墳の周囲を廻ってみる。正面がおそらく後方部。
墳丘の裏手から北西方向には雲がかかった山(比叡山、大文字山?)が良く見えた。
茶臼山公園内には、お城のような屋根の芭蕉会館という建物も。
ぐるりと時計周りに墳丘を回って降りたところに国史跡茶臼山古墳の石碑(右の白いものは不法投棄のソファ。こんなところに・・・)
さらに丘を下って、もとの上り口まで降りてきたとき、道の角にも案内板を発見。
案内板の裏にも字が書かれていた。
「古墳は彦坐王とも大友皇子一族の墓ともいわれる」とあったが、なんと「さらに南西100mには小茶臼山古墳がある」とあるではないですか。
再び丘に上って茶臼山古墳の裏手の運動場の向こうにあった盛り上がりを目指したら、ありました石碑が。
上記の写真の位置から琵琶湖方向に、グランドを隔てて茶臼山古墳がある。朝早くから子供たちがサッカーの練習をしていた(AM6:30くらい)
小茶臼山古墳の墳丘への道を探していたら、左に回りこんで少し下がったところに小道を見つけた。
少し藪っぽかったが、明るくなってきたので入ってみた。
道は枝分かれしたおり、墳頂はわからなかった。水準点?の石だけ見た。
グランドに戻って、日を浴びた紅葉の木を見て、再び膳所本町駅へ向かった。
大友皇子の最期の地については、どこかで聞いたなと思っていたらなんと千葉県の久留里線沿いでした(三河説もあるようですが)
白山神社古墳は今年の1月に探訪していました。「房総の古墳を歩く」のサイトにも大友皇子伝説が載っています。千葉県も歴史の舞台でありました!
古墳つながりで日本史がより身近になりました。
つづく。