バスに乗って10分ほどで現地到着。
生垣の入口を抜けると直径76m・高さ12mの円墳と、その周囲の陪塚(のようにみえる墳丘)が現れた。
サイト内に入れるのはツアー客だけで、一人のガイドさんが丁寧に40分くらい説明をしてくれる。(途中で集中力が途切れた・・・)
墳丘の中に入る!
石室へ続く橋の下には白い石(珪岩・花崗岩)が敷かれていた。
以下はWikipediaより転載。
「(ニューグレンジでは)復元に際して、ほぼ垂直な鉄筋コンクリートの壁を塚の入り口から両側に建設し、そこに石壁を形成する白い珪岩などを固定するようにした。このような復元方式は特に考古学界で論争を呼んだ。批判的な考古学者は、この塚が建設された当時、このような角度で石壁を固定する技術は存在しなかったと主張している。白い珪岩は塚の前に敷き詰められ、広場になっていたという説もある。ノウスではそちらの説が採用され、復元に際して珪岩の石を塚の前に敷き詰めて広場を形成した。」
つまり、こちらのノウスの遺跡では「塚の前に石を敷き詰める復元方法が採られている。
このアイデアは龍安寺の庭とつながるものがある?
石室内部に入ると、そこには小部屋が整備されていて説明が続いた。
小部屋の横に羨道への入口があったが、残念ながら立ち入り禁止だった。
鉄格子越しに撮った羨道。東西方向に2つあるが内部で繋がっておらず、それぞれの先に石室がある。東の羨道の先にあるのは十字形の石室で、3方に凹所があって石鉢が置かれ火葬された遺骨がそこにあったそうだ。
高さは150cmくらいか。ライトアップされていた。
再び外に出て周囲を歩く。周囲には18の塚があり、かつての教会の遺構もある。
新石器時代に築造され、そして放棄された後、ケルト人の墓、初期キリスト教徒の居住地、ノルマン人の砦、修道院と変遷し、1939年に政府がこの一帯を買い取るまでは主に農地として使われていた(Newgrangeのgrangeは農場の意味)
本格的な発掘調査が行われたのは1962年でそれまでこの遺跡についてはほとんど何もわかっていなかったそうだ。(Wikipedia)
そして少し行くと墳丘に上る階段が。
いそいそと上っていく。
墳丘上は広場のようになっていた。
遠くまで見渡せる。この遺跡が丘の上に位置していることがよくわかる。
360度の雄大な眺め。
緑が一面に広がっている。
思い思いに写真を撮る。
墳丘上に囲いがあった。
石室の陥没地点?
自由時間が10分~15分しかないので、周囲を早足で回る。
ここだけ見ると、日本の古墳のよう。
内部はコンクリで補強されていた。羨道側壁の石が通路両サイドに並ぶ。
周囲は127個の「キーストーン」で囲まれている。
石を保護するために、円周の縁がコンクリの屋根のように補強されている。冬にはシートをかけてしまうそうだ。
西側の羨道への入口。石の形に沿った大きな渦巻きが描かれている。
丸い渦巻きの集合。
クネクネタイプ。
大きな放射状の模様。
渦巻きとクネクネの組み合わせ。
石の模様を眺めながら一周する。
墳頂部が削られたような塚。
こちらもU字型に残った塚。
環状列柱も復元されていた。
あっという間に終了時間となった。
ぞろぞろとバスに乗り込み、ビジターセンターに戻る。