墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

「弥生って何?!」 国立歴史民俗博物館 講演会 千葉県佐倉市

8月9日(土)の朝、台風11号の影響はまだ出ていなかったので、「歴博」の講演会に出かけた。

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大阪の吹田にあるのは国立民族学博物館で「民博」、こちら佐倉は国立歴史民俗博物館で「歴博」 ちょっとまぎらわしい。

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歴博講演会は368回目だそうだ。今回は入場無料、予約不要の回。

10時半ごろ着いたので、まず常設展示の第1展示室(原始・古代)と、企画展示「弥生って何?!」の部屋へ。

2つの部屋だけ一通り見て、エントランスに戻ると12時。すでに人が集まり始めていたがベンチに座っていた程度、と、一人二人がホール入口に向かうとあっという間に数十人の行列になった。開場予定の12時半より少し早く開場。席を確保してミュージアムショップ(本が充実している)を見て開演5分前に戻ったら、定員260人のホールが満席、第2会場でのビデオ中継も用意されていた。

 

演題「弥生って何?!」

講師:藤尾慎一郎氏(歴博研究部教授)

講演趣旨より:紀元前10世紀に九州北部で始まってから、3世紀に近畿で前方後円墳が作られるまでの約1200年間つづいたのが弥生時代

講演では「水田稲作を開始しつつも縄文からの土偶の祭りを行うが、稲作の方を300年程でやめてもとの採集狩猟生活に戻ってしまう人々」や、「稲作開始までに500年近くアワ・キビ農耕を行う人々」など、研究者によって評価が分かれる農耕文化を取り上げ、弥生文化とは何かにという問題について考える。下記に案内全文。企画展示に沿った講演内容。

http://www.rekihaku.ac.jp/events/lecture/index.html

 

自分にとって興味深かったのは、弥生時代にも縄文文化があったということ。時代区分と文化は分けられるものであり、「弥生時代における縄文文化」という言葉が普通に語られていることは新鮮だった(縦軸に世紀、横軸に地域の色分けマトリクスがわかりやすかった)

そこで改めて、弥生文化とは何か、ということになる。

 

当初のタイトルは「水田稲作は弥生と言えるのか」だったそうだ。

弥生文化の要素として挙げられるのは、水田稲作・環濠集落・青銅器祭祀・方形周溝墓。

その中で、青銅器祭祀を伴う文化は西から中部どまり、環濠集落は利根川でとまる。

水田稲作を「生業」として選択すると環濠集落が造られるが、これは弥生文化を特徴づける社会的側面である。弥生時代利根川から北の東北南部では、水田稲作の遺跡はあっても環濠集落が発掘されておらず、この地域が弥生文化圏だったのか、という考え方も導かれる。

 

面白いのは東北南部が古墳時代にはいるのは4世紀と、西の地域とあまり違わないということ。

あの雷神山古墳168mも4世紀末だった。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2014/05/25/070000

 

これまでは、水田稲作の開始によって富の蓄積、貧富・階級の差がおこって、強い権力を持った首長が現れ、多大な労働力の動員が必要な「古墳を築く」社会へと移っていったとされている。

北九州では稲作文化を1200年かかって蓄積して古墳文化へ移行したことに対し、東北南部では、縄文文化から「稲作文化を生業としたことによる富の蓄積を経ずに」古墳文化へダイレクトに移行してしまうことをどう評価するか、となるそうだ。

 

90分の講演後、30分も時間をとって、会場からの質問にも講師が一つひとつ丁寧に答えられていた。

 

自分の素人質問、「千葉県における縄文から弥生への変化では、外から新しい文化を持った人がはいってきたのか、在地の人が影響を受けたのか?」、に対する答えも分かりやすく、「関東に限らず北九州においても、変化は突然起こっている。あの板付遺跡も、縄文後期に人が暮らした痕跡はない」という主旨でした。(そこまでが答え)

ということは、「技術を持った開拓者」が来た、と考える方が蓋然性が高いのでしょうね。

別の方が、「なぜ利根川で止まったのか?」と、いい質問をされていたが、そこは謎なのだそうだ。

 

とてもためになる講演会でした。

藤尾先生、関係されたみなさま、誠にありがとうございました。

上記については聞き間違いや理解不足もあると思いますので、その際はご指摘いただければ幸いです。

 

エントランスの窓越しの朝顔

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