国分寺台を徘徊した後も時間があったので、少し南のエリアを回った。
島穴神社(しまあなじんじゃ)
以前、姉埼神社を訪ねたときに「境内に松の木がなく、氏子も門松を飾らない」、なぜなら「祭神の支那斗弁命(しなとべのみこと:女性)が、島穴神社の祭神の志那都比古尊(しなつひこのみこと:支那斗弁命の夫、または弟)が、出かけたきり帰らず「待つのはつらい」と嘆いたので、「待つ」に通じる「松」が当地では忌まれるようになった」、という話が印象的だったので。(Wikipediaには別の伝承も載っていて、それぞれ面白い)
また、内房線の線路沿いにあり、通り過ぎるたびに境内の森が気になっていたこともあった。
カーナビの示すままに進んだら線路の反対側の旧社地に出たが、そのあたりの林の中に常に風が吹く穴があったので「島穴」となった説もあるそうだ。穴は確認されておらず古墳の石室の可能性も指摘されていると、これもWikipedia。
石室古墳は日本武尊の時代からは、かなり下ってしまうと思われるが。
このあたり新しい道路を建設中で、完成すれば姉埼神社から二子塚古墳の横を通って島穴神社の参道とつながるが、かつては両社を神輿が行き来していたそうだ。
参道には朱塗りの橋がかかる。
その先の石橋(大正8年)の上から境内。
明るい境内にある拝殿。
主祭神は風の神の志那都比古尊。配祀神に日本武尊 (やまとたけるのみこと)と倭比売尊 (やまとひめのみこと:日本武尊の叔母)
正面の龍の彫刻が見事。
弟橘姫命が入水時に祈った風の神を、日本武尊が姫の遺志に従いこの地に祀った、と伝えられるそうだ。
祭神に弟橘姫命がはいってないのが不思議だが、弟橘姫命を主祭神とするのは茂原の橘樹神社(たちばなじんじゃ)。
上総国二宮で、島穴神社から真東へ21kmの場所にある。
毎年5月に田植え神事が行われるそうだ。カルガモ親子もいた。
島穴神社から南東3km程(ただし道は大回り)の養老川流域低地から台地に上がった場所に今富塚山(いまとみつかやま)古墳があった。
真言宗豊山派、今富正光院というお寺の境内。
標柱があった。側面には下記の説明書き。
「養老川下流域(南岸)の姉崎古墳群に含まれる前方後円墳で、全長110m、後円部径72mの規模を持っています。造られた年代は4世紀と推定され、当地域では最古の前方後円墳と考えられています。」
・今富塚山古墳 前方後円墳 全長110m 4世紀
墳丘中腹に塚(お墓?)があり、かなり形が変わっている。
後円部の墳丘上だが、4分の1しか残っていない。
いきなりスパッと切れ落ちている。オーバーハング状のような印象。
逆側、おそらく前方部方向。
後円部と前方部の間に「切り通し」の道がある。
くびれ部から前方部。
この正面に後円部があったはず。
埼群古墳館さんのサイトは冬の写真なので形がわかりやすい。
http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/itihara_imatomi/
正光院と道を隔てて、大きな岩のある立派なお屋敷があった。
今富塚山古墳から、県道139号線を北に1.3kmの場所、養老川を渡る橋の東側に、気になる塚があった。セブンイレブンの裏手にあるが、地図やグーグルマップには何も出ない。
上に鳥居あるので登れそうだがアプローチがわかりにくい。民家の犬も吠えるのであきらめかけたが、トラックヤードの敷地をはいってみた。
きれいな富士山の形になっている。
回り込んだところに石灯籠があり、草むしているが参道があった。
頂上には浅間神社の小さな祠があったのでお参りする。
養老川上流方向。15mくらいの高さになるだろうか、見晴らしがよい。
下流方向。工業地帯の煙突が見えた。
養老川対岸の集会所では太鼓の練習をしているようで、よく響いていた。