諏訪台古墳群は、神門5号墳の説明板地図にも載っていた。神門古墳群より少し南の台地の先端、上下諏訪神社の境内にある。
社殿の裏の入口、普通の住宅地エリアから参詣した。
社殿に向かって左右それぞれに、墳丘と思われる盛り上がりがあった。
古墳の特定は、後から埼群古墳館さんのサイトに頼った。
・諏訪台9号墳 前方後方墳 後方部内径25m強
・諏訪台10号墳 円墳 径約40m、高さ5.6m
10号墳の墳頂。大きな円墳だが樹木が繁り眺望はない。
墳丘の下から見た10号墳。
10号墳の下は広場のようになっていて、桜が整然と植樹されていた。若木だが春はきれいだろう。
桜の広場の端からは台地下に広がる眺めが得られた。
すぐ下に小湊鉄道が通っていたはずだが、現地では気がつかなかった。
社殿の前からは一直線の参道が台地下に続いている。
石段を上がったところから社殿を振り返ったところ。
このあと、「房総の古墳を歩く」の地図に掲載されていた「国分寺350号墳」を目指した。それは住宅地の中に、ぽっかり浮かんだ島のようにあった。
・持塚(もちづか)3号墳 円墳 直径23.5m 古墳時代中期
下記は、市原市埋蔵文化調査センターのHPより転載。
http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/isekifile167.htm
持塚古墳群は国分寺台南部の台地上に位置し、前方後円墳1基、円墳3基、方墳1基の計6基で構成されています。持塚3号墳は円墳3基のうちの1基です。その名称は、国分寺台350号墳や、小字名から山王街道350号などと呼称されていましたが、地元では惣社行人塚と呼ばれ、三山塚として知られていました。国分寺台の区画整理後も公園内での保存が決まっていましたが、整備工事に先立って市原市教育委員会が行った試掘で埴輪が出土し、古墳を改変した塚であると判明しました。これを受け、昭和56年に早稲田大学考古学研究室により、周溝の発掘調査が急遽行われ、直径23.5メートル(28.1メートルとの記載もある)の円墳と判明し、幅6メートルの周溝底からは円筒形・朝顔形埴輪とともに、家形・楯形・馬形などの形象埴輪などが出土しています。群中の4号墳・1号墳・6号墳とともに、国分寺台地区における中期古墳は限られ、その埴輪の生産地も含め国分寺台の古墳を語る上で重要な位置を占める古墳です。
現在は住宅が建ち並ぶ国分寺台山王公園内に現状保存され、周辺住民のシンボル的な存在となっています。」
350号という数字は、旧番地だったのだろうか。古墳の数ではなさそう。
現地の案内板は、金網のすぐ裏にあった。
ちょっと読みにくかったが、HPとは微妙に違う視点で説明されていたので転載。
「惣社行人塚(国分寺台第350号古墳)
この塚は出羽三山の山岳宗教を信仰する惣社地区の人々によって、江戸時代の中頃に造ったと伝えられています。形は方形で三段に造られています。この塚を祭った信者たちは行人と呼ばれ、毎月この塚に梵天を立ててお祭りしていました。
昭和56年に塚の周囲を発掘調査したところ、この塚は古墳を利用して造られてことがわかりました。堀の底からは円筒埴輪、朝顔形埴輪、家型埴輪、馬形埴輪、盾形埴輪等が多数出土しました。埴輪の様相から、この古墳は今から1500年余前の5世紀中頃に造られたものと考えられます。
このように、この行人塚は古墳から後世に三山塚に利用され、それぞれの時代の歴史を物語る貴重な文化財です。中に入ったりせずに、みんなで文化財を大切に保存しましょう。
昭和60年3月30日 市原市教育委員会」
公園の一区画が墳丘になっている。この位置の背中にこどもの遊具がある。
樹木が鬱蒼としている。
高さは2~3mくらいか。周囲を回ったが入口はなかった。