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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

いちはら埋文講座 邪馬台国時代のいちはら 市原市埋蔵文化財調査センター

土曜日の午前、ネットで知った講座に参加した。会場は市原市埋蔵文化財調査センター。

前から一度訪れたいと思っていた場所だった。土日祝が閉館と聞いていたので今まで来られなかったが、月に一度の「埋文講座」(及び夏休み子供体験講座)開催日は土曜日でも開館していた。

市原市中央武道館の隣にあり、広い駐車場がある。五井駅から小湊バス中央武道館行き。

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はいってすぐの吹き抜けホールが展示室になっている。石器、土器、埴輪などの出土物が数多く展示されている。

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講義は2階の会議室で10時から12時まで。事前申し込み不要で無料!

50名の枠だったが100人近くが参加し、熱心に聴講していた。

初めて参加したが今年度はこの日が3回目で、5,6月に縄文時代遺跡、次回9月からの秋は古墳時代(稲荷台1号墳、山倉1号墳、諏訪台古墳群)、冬は上総国分寺、上総国分尼寺と興味深いテーマが続き、2月には国分寺台を実際に歩く現地講座もある。

 

今回の「邪馬台国時代のいちはら」は、弥生時代終末期の中台(なかで)遺跡と神門(ごうど)古墳群が題材。わかり易く発見のある講座だった。

以下は講義の説明と「今月のミニ展示コーナー 解説シート」から、まとめさせていただいた。(個人的感想もはいっています)

 

国分寺台地区にある中台遺跡は、上総国分寺と隣り合う神門古墳群を残した人々の母村と捉えられ、弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴建物350棟と掘立柱建物1棟、方形区画溝2条が見つかっている。

 

はじめに神門(ごうど)古墳群の解説。

5号墳→4号墳→3号墳の順に築造され、前方部が徐々に発達する前方後円墳の発達過程が見られる興味深い古墳群だが、保存されたのは5号墳のみで隣に並んでいた3号墳、4号墳は調査後削平された。

5号墳は前方後円墳が定型化する前の3世紀前半の造墓と推定される東日本最古の古墳であり、3つとも残っていれば「国指定史跡」となったはず、とのコメントもあった。

 

展示コーナーの写真。

右下が神門5号墳。その左が4号墳、その上が3号墳だが現状は民家。

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3号墳の調査時の写真。3つ並んでいたら、生物の「幼生の発達段階」のような前方後円墳への発達の様子が見られたはず。

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上総国分寺の「寺域区画溝」は3号~5号の墳丘を避けて作られている(下図の国分寺の説明板の右下5号墳の左側)  つまり国分寺建立という一大国家プロジェクトが興っても、地元では築造から500年を経た古墳群が大事にされたということの「証拠」が残っている。

上総国分寺にある説明版

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にもかかわらず1200年後に、3号、4号は開発の波にのまれてしまった。

しかし、古墳全体を掘り下げた調査ができたことで、判ったこともあった。墳丘を築く前の地面には「掘ってすぐ埋め戻されたような縦穴建物跡」があり、旧表土面には土器があって古墳築造前におまつり的行為があったと推測される。土器は在地系と外来系が混在するが、4号墳では近畿系の「タタキ甕」が顕著に見られる。

タタキ甕 @展示室

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4号墳は纏向型前方後円墳に分類されるが、その纏向型前方後円墳は近畿系土器が流入する地域に分布する。

 

次に、中台(なかで)遺跡についての解説。

この遺跡には、弥生時代後期中頃から古墳時代前期にかけての竪穴建物跡が数多くあるが、ピークは弥生時代終末期だった。古墳時代中頃以降の遺跡は無く、人の生活拠点は姉ヶ崎や菊間に移ったと考えられる。

 竪穴建物の穴を上から見た形は、時代を経るにつれて「丸から四角へ」の変化が見られる。弥生後期は円形が基本、弥生終末期は隅丸方形を基本としつつ方形が出現し、古墳前期は方形が基本となる。その穴の形の変化と出土する外来時の分布状況をみることで、遠隔地との交流があったことがわかってくる。

面白いと思ったのは「特定種類の土器だけ外来系」というパターンと、「各器種セットで外来系」というパターンがあって、後者は移住者と考えられるということ。

東海西部系土器のセット  @展示室

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中台遺跡では近畿、東海西部、北陸西部系が、周辺の長平台(ちょうべいだい)遺跡では東海西部系が、南中台(みなみなこんで)遺跡では北陸南西部系の外来系土器が多く出土する。

弥生時代終末期には列島規模で遠隔地交流が活発化していたことを示す証左だが、遺跡から出土する土器の多くは在地系なので「もともとの住人を一掃するような規模や性格の来訪者」ではなく、各集団がこの地で共存していた様子がうかがえる。

中台遺跡出土の外来土器の分布状況が三河矢作川流域のものと似ており、三河と上総とが「原東海道」の発着点と終着点ではないかという説は、非常に興味深いと思った。

 

最後に、独立棟持柱建物と方形区画についての解説。

神門古墳群の少し北の場所からは独立棟持柱建物の跡が発掘されている。

これは伊勢神宮のような形態の、切妻屋根の先端の棟木を地面から直接支える柱を持つ建物で、千葉県内で初、東日本でも希少な事例。浜松の大平(おおだ)遺跡で例がある。

パネル展示より

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この建物を含む区域を囲む2条の溝も発掘され、同時期の一般的な住居が溝の外にあることから、建物は非日常的な空間を作り出すための施設だったと考えられ、区画内で祭事を行った人物は神門古墳群の被葬者と考えてよいようだ。

この情報は、当日の千葉日報でも詳しく紹介されていた。

http://www.chibanippo.co.jp/news/local/203228

 

神門5号墳のような発生期の前方後円墳があるということは、ヤマト王権の発生期から地域同士のつながりがあったということになる。

纏向遺跡のような発見がここ市原でも見られるとは。

 

とてもわくわくする話を聞けましたので共有したいと思い、載せさせていただきました。

当方の認識の誤り、聞き違いもあると思いますので、このブログを見る機会がありましたら、どうそご指摘ください。

説明いただいた鶴岡様、準備いただいた埋文センターのみなさま、誠にありがとうございました。