前回のつづき。
須和田遺跡の台地を北側に降りると、斜面のひらけた場所に郭沫若(かくまつじゃく)記念館がある。(復元移築)
敷地全体が記念公園として整備されている。この時はピンクのゆりの花が幾株もきれいに咲いていた。4月初旬は緑の部分全体が芝桜で彩られるようだ。
入口へのアプローチ。入館は無料。
内部には、写真や書籍、服など、さまざまな資料が展示されている。
以前たまたまここを訪れるまではまるで「知らなかった」が、こちらで説明を受けて、日中国交正常化に貢献した詩人であり文学者であり考古学者であり政治家だったことを知った。
郭沫若(1892~1978)は、四川省楽山県出身で1914年に日本で学び、六高(岡山)を経て九大医学部を卒業。在学時に文学活動に励んだ後、国民党に参加。北伐軍の総政治部主任となるが蒋介石と対立、中国共産党に加入したが蒋介石に追われて1928年2月日本へ亡命。千葉県市川市に居を構えて中国史の研究に没頭した。
日中戦争が勃発すると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加。戦後は中華人民共和国に参画して中国科学院院長、全人代常務副委員長となり毛沢東の庇護を受けた。中国では魯迅と並ぶ文学者として著名であり、日本と中国を結ぶ架け橋として、国交正常化の際にも重要な役割を果たした方だ。(Wikipediaをもとに要約)
周恩来(左)と並んだ写真
甲骨文字の研究から戯曲、詩作まで幅広い著作の数々。
高校時代の郭沫若と夫人の佐藤をとみ。聖路加病院の看護師だったそうだ。
毛沢東から郭沫若への手紙(レプリカ)
横書きで斜体がかっていて、インパクト大。
周恩来から郭沫若への手紙(レプリカ)
一文字一文字丁寧に書かれているがサインは力強い。
オリジナル直筆の額。
楽山の生家は、今やテーマパークのようになっているようだ。
中国の中学校の歴史教科書の現物があった。左頁に魯迅。右に郭沫若。
日中戦争のところは40頁もあった。日本の教科書での40頁は時代区分で2つ位が終わってしまうのではないか。南京事件も731部隊も文章量が多い。これが歴史の試験にも出るのでは・・・
和室から庭の眺め。移築なので場所は異なるが、部屋の雰囲気は同じではないか。
以前は中国から訪れる人も多く、著名人(映画監督や俳優とか)のサインが多く飾られていた。教科書にあるので、中国では皆名前は知っているとのこと。
尖閣問題が起こってからは減ったままとのことだった。
故郷の楽山の石仏の写真。803年に完成した高さ91m(像高約60m、奈良のの大仏は15m)の岩山を90年かけて掘った世界最大の仏像。1996年に世界遺産に登録された。
市川市と楽山市とは郭沫若の縁で友好都市関係にあるが、やはり現状は交流が滞っているそうだ。
いつか訪れてみたい。
まずは作品を読まないと始まりませんね。