前回のつづき。
本土寺参道の信号から、2車線の通りを下っていくと、左手に木が茂る台地が見えてくる。台地の端の道を歩いていくと、大谷口(おおやぐち)歴史公園の入口があった。
0.7ha(サッカー場1面ほど)と公園自体は広くはないが、千葉県最大級の中世城郭・小金城(南北600m・東西800m、単純掛け算で48ha、TDS49haより少し小さいが中山競馬場や大仙古墳~どちらも46ha、より大きい )の、北東端の上り口(金杉口)になる。
公園としては地味であり、北側斜面なので薄暗く、かつじめっとしていたが、土塁や空堀の遺構が残る興味深い場所だった。カップルで散策している方も2組。
下記は「障子堀(しょうじぼり)」
説明板によれば、自然の斜面をさらに削って急傾斜とし、虎口から20m程の地点から、幅4m、深さ2.5mの空堀が掘られている。
途中一ヶ所に高さ2mの間仕切り(障子)があり、堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっているそうだ。
見た目は、土や落ち葉で埋まっていてよくわからなかった。
さらに上ると頂上部が土塁に囲まれた広場になっている。広場全体を50cm掘り下げ、縁辺部を1.5m盛り上げているが、外側の空堀の構造から見て、敵の侵入を防ぐというよりも、自分の身を隠す程度の機能だったと思われるそうだ。
土塁の上(散策路上)から。
広場には、写真入りの石碑があり、「小金城(別称大谷口城)跡」の解説が刻まれていた。下記はその抜粋(少し要約)
「小金城主の高城氏は千葉氏または分家の原氏の一族と言われ、松戸市域の活動は15世紀中頃に栗ヶ沢に館を築いたのに始まり、根木内城、小金城と本拠地を移してきたといれている。
戦国時代末には小金城を拠点として現在の松戸、市川、船橋、鎌ヶ谷、沼南、柏、我孫子なども支配し、東葛地方最大、下総国有数の領主、武将となった。このころ高城氏は北条氏の軍事的勢力に組み込まれていて、1538年の第一次国府台合戦、1564年の第二次合戦で北条方として戦って相模国にも領地を得たが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏は滅亡し高城氏も運命をともにした。」
石碑には写真(旧境界線入り)も掲げられている。
南は常磐線、東は流山電鉄にかかる広大な城郭だった。
広場の南側の斜面には、別の空堀跡がある。
こちらは「畝堀(うねぼり)」
下記は説明板より。
幅7m、深さ3mの規模は普通だが、堀底に断面が蒲鉾型の畝(高さ90cm)が堀の方向と直行する向きに連続して造られていて、全国的に非常に珍しい構造。畝部分が粘土層になっていて滑りやすいので、より効果的だとのこと。
堀底に加工を施した畝は、北条氏勢力下の城に多く見られることから小金城(高城氏)の戦国時代末の状況が古文書だけでなく、城の施設からも伺える。
調査当時の写真があってわかりやすい。
堀の先には、台地下に平野が広がる。
一旦上り返して、もう一つの入口(こちらがメイン)に下った。
こちら側は、兜を戴いた石碑があった。
交差点に立っている。このあと、右の看板の大勝院を目指してみた。
つづく。