墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

堀之内貝塚 市川考古博物館(再訪) 千葉県市川市

とても暑い休日。子供の学校に行って用事を済ませた後、ついでに近くの博物館を再訪した。

堀之内貝塚がある丘にある市川考古博物館。

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博物館入口横からは遠くまで見渡せる。

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博物館正面の広場。前回来た時は3月で芝生に座れるような感じだったが、今回は草が伸びていて歩きにくいような状態だった。

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【再掲】2013年3月 上記から50mくらい引いた位置から。

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http://massneko.hatenablog.com/entry/2013/03/11/085432

 

・堀之内貝塚 国史跡 以下に説明版を転載。

 堀之内貝塚は、千葉県北部に広がる下総台地の西南端にあり、縄文時代後期前半から晩期中ごろまで(約3800~2500年前)の、この地域の中心集落でした。堀之内というのは、東にある古くからの集落の呼び名で、ここの場所のかつての地名は、国分村駒形でした。現在の住居表示は、市川市堀之内2丁目15番です。

遺跡は、南を道めき谷津(どうめきやつ)、北を千艘谷津(せんぞうやつ)という谷にはさまれた、細い尾根状の台地にあります。貝塚の規模は、外形で東西約225m、南北約120mです。貝殻の散布は、南北の両斜面と、西の台地上に乗りますが、西端の一部は通路のように途切れています。全体としてはU字形をなす斜面の馬蹄形貝塚です。

堀之内貝塚は、千葉県でも東京にもっとも近い大型の貝塚であること、林なので耕作のじゃまにならずに発掘できたため、早くから多くの考古学研究者や愛好者がおとずれています。

記録では、明治16年(1883年)が初出ですが、堀之内貝塚の名を有名にしたのは、明治37年(1904年)の東京人類学会第一回遠足会の会場に選ばれ、その成果が各専門家により学会誌に報告されたことによります。

その後、大正6年(1917年)と大正10年に収集された土器に違いがあることに気づいた山内清男氏は、昭和15年(1940年)に、この資料を基準に堀之内1式土器と堀之内2式土器を提唱しました。

その後も、昭和29年(1954年)の日本人類学会から委託された早稲田・慶應義塾明治大学による発掘と地形測量、昭和38年の明治大学による、最後となったB地点の発掘まで、実に多くの発掘がくりかえしおこなわれました。

貝は、イボキサゴという小さくて丸い巻貝が一番多く、ハマグリが次に多くなっています。ともに砂質干潟でとれる貝です。晩期では、ハマグリに次いでオキシジミが多くなります。泥の多い海岸になったと想定されます。魚では内湾のクロダイが多く、このほか東京湾でとれる各種の魚も捕獲されていました。かわったものではコウイカの多いことが特色です。これは甲羅のあるイカなのでわかったことです。陸獣では、イノシシとシカが主な食料となっていました。はじめはイノシシの方が多く、次第にシカが多くなります。しかし、主食は遺物として残らない植物と考えられます。

発掘は部分的なものなので、全容は不明です。住居跡は台地の上から斜面にかけて、人骨は斜面部から発見されています。南の道めき谷津には、崖くずれで流れた遺物と、木の実をアクぬきする木組み施設が発見されています。水くみ場、舟着場と丸木舟も埋もれていることでしょう。数キロ離れた海へは、舟で往来していたと想像されます。

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平成19年(2007年)3月の 説明板だが、「丸木舟も埋もれていることでしょう」という暗示のとおり、2014年2月に、すぐ近くの雷下遺跡(外環道建設現場)では7500年前にさかのぼる日本最古の丸木舟が出土したことが発表された。

http://www.chibanippo.co.jp/news/politics/177281

上記の千葉日報の記事では、「縄文時代の丸木舟は全国で約160艘見つかっているが、今回を含め60艘が県内からの出土」とあった。

現地説明会が2/15(2/8からの延期)に行われたが、この日も大雪で行けなかった。

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/seisaku/kouhou/photo-2013/260215.html

 

 林の中へ続く小道には貝殻が散らばる。

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見た目には「普通の雑木林」が広がっている貝塚遺跡。

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貝塚入口には、北総線北国分駅と京成線の国府台駅とを結ぶ散歩コース(4キロ程か)の案内板もあった。

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博物館では常設展のほかに、外環自動車道工事に伴う調査の発掘資料も展示されていた。

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エントランスホールでは瓦の作り方の展示もあった。

下総国府の北下遺跡(瓦窯)からは、軒丸瓦の作り方に3種類のパターンが見られ、それを分析することで工人が各地から集められたことがわかるそうだ。

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下記①の結城廃寺(茨城県結城市)の造り方、②の千葉寺廃寺(千葉市)の作り方、③の都などでみられる作り方。

作り方が地域ごとに独自に発展するほど、瓦作りが広がったということか。

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結城市までは下総国だった。鬼怒川で守谷までつながっている。

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常設展で興味深かったのは法皇古墳の出土品。東京医科歯科大の国府台キャンパス内の「身近な古墳」からの華麗な副葬品とレプリカ。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2013/07/22/094203

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 隣(こちらは台地下)にある市川歴史博物館の方も見学した。

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