読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

飯郷作遺跡 千葉県佐倉市

前回の続き。

端正な茅葺薬師堂を見た後に、本日の目的地である飯郷作遺跡(いごさくいせき)へ向かった。

「房総の古墳を歩く」にあったが未探訪だったところ。

http://www.haniwakan.com/kenkyu/boso/sakura.html

 

遺跡は佐倉西高校の校内にある。

f:id:massneko:20140524150955j:plain

 

下記の、14年前の卒業生が寄贈した案内板には、遺跡の案内も書かれている。

この遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭に属する「集落跡」および「前方後方墳」「方墳」「方形周溝墓」」等より成り、本校の設立過程で発掘調査が行われた。現在ではその中の「古墳」が本稿敷地内に現状保存され、環境整備がはかられている。

f:id:massneko:20140524151017j:plain

 

・飯郷作遺跡 前方後方墳1基、方墳7基 3世紀後半~4世紀

f:id:massneko:20140524151623j:plain

 

説明板も整備されている。

f:id:massneko:20140524151144j:plain

以下は説明板より転載。

飯郷作遺跡は、昭和51(1976)年から翌年にかけて発掘調査が行われ、弥生時代から平安時代の住居跡や古墳が多数(竪穴住居跡109軒、掘立柱建物跡6棟、前方後方墳2基、方墳25基など)検出された。このうち古墳は、古墳時代はじめ頃(3世紀後半~4世紀)に造られたもので、2基の前方後方墳を中心に、やや大きめで独立して造られた方墳と、小さめで周溝を切り合った方墳群で構成されている。方墳は墳丘が削られ埋葬施設は検出されなかったが前方後方墳や方墳周溝内の埋葬施設からはガラス玉・水晶製玉・管玉などの装身具や銅鏃、周溝内からは墓に供献された土器も発見された。

飯郷作遺跡では、古墳時代はじめ頃に、前方後方墳と方墳からなる墓が造られていることが判明したが、この事実は、当時の東日本の墓制の様相や社会構造を知る上できわめて重要であることから、遺跡の一部である前方後方墳1基と方墳7基の墳丘を復元して保存してある。

 

発掘調査時の写真は、まさに「遺跡だらけ」

f:id:massneko:20140524151538j:plain

 

墳丘が残る場所は、周囲より一段高くなっている。

f:id:massneko:20140524151203j:plain

 

前方後方墳の墳丘。

f:id:massneko:20140524151228j:plain

 

前方後方墳の前方部左下から。

f:id:massneko:20140524151244j:plain

 

前方部から後方部。

f:id:massneko:20140524151303j:plain

 

後方部の墳頂からの台地下の眺め。

台地斜面を掘り下げてグランドの平面を設けているようだ。

f:id:massneko:20140524151325j:plain

 

上記の場所から振り返った視点。墳丘を避けて校舎が建てられている。

f:id:massneko:20140524151336j:plain

 

 以下は、千葉県教育振興財団のサイトより転載

・・・弥生時代から続く墓の様式である方形周溝墓と、古墳時代に新しく広まった前方後方墳と方墳が、このようにひとまとまりになって発見されたのは、当時全国でも珍しく、弥生時代から古墳時代にかけてこの地域がどのように変化したのかを説き明かす上での貴重な資料となりました。このため、発見された古墳群の一部を整備して保存することとなり、校舎はこれらを避けて建設されました。

保存された古墳群は昭和54年に県の史跡に指定され、学校での生きた歴史学習の場として活用されています。(見学を希望される方は、事前に高校に連絡してください。なお、出土した資料は県立房総風土記の丘に保管されているほか、一部は高校にも展示されています。)

http://www.echiba.org/iigousaku.html

 

方形周溝墓と方墳、前方後方墳とが、人々が継続的に暮らした同じ場所で見られるとうことは、同じ系統の集団が採用した墳墓の形態が徐々に移行していったと考えるのが自然なのだろうが、実際にはどのように変化したのだろう。

 

古墳の発生の話は、去年の6月に訪れた、市原の神門(ごうど)5号墳を思い出す。弥生墓から古墳への移行期の「古墳発生及び前方後円墳の起源」を示すものと説明されていた。

下図は読みにくいが、真ん中の列、上から5号墳→4号墳→3号墳と変化しており、円墳の周溝の一部が、外と内とをつなぐ橋にようになって、そこが拡大して前方部になっていった変遷がしめされていた。

【再掲】神門5号墳 

f:id:massneko:20130623155618j:plain

 http://massneko.hatenablog.com/entry/2013/06/24/164037

 

前方後方墳の場合はどうなのだろう。弥生時代の方形周溝墓は4辺に周溝を持つが、4隅は外とつながっている。つながっているところを前方部として発達させると、後方部の角とくっつくことになり、四角い頭が45度回転して尖った頭になってしまう。

 

【再掲】弥生時代の方形周溝墓(横浜市立歴史博物館のジオラマ)

http://massneko.hatenablog.com/entry/2013/06/04/154931

f:id:massneko:20130531111555j:plain

 

それとも、方形周溝墓が方墳となって周溝が全体を囲むようになった後、前面に祭祀のための陸橋ができ、その祭祀の場が後方部を中心として裾広がりに拡大したのだろうか・・・

 

妄想するだけでは答えが出るはずもなく。

検索したら下記のサイトに「前方後方墳へのモデル」が示されていました。

http://ukigami.com/kohun/

 

前方後円墳前方後方墳も、「なぜ裾広がりの前方部が付いたのか」ということはとても興味をそそられます。

自分が「定説」を知らないだけかも知れません。

しかし当遺跡が、さまざまな想像をかきたてる貴重な遺跡であることは間違いないと思います。