墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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印西市立印旛歴史民俗資料館 千葉県印西市

前回のつづき。

酒々井町の墨小盛田古墳のあと、佐倉市の飯郷作遺跡を目指したが、途中でちょっと北に上がれば、5/3に入りそびれた「印旛歴史民俗資料館」に行けることに気がついた。印旛沼にかかる橋(というか土手)を渡って車で5分ほど。

 

 【再掲】資料館の外観

http://massneko.hatenablog.com/entry/2014/05/10/202923

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入館無料。靴を脱いで入る。残念ながら写真撮影は不可だった。

展示品は箱式石棺や埴輪など古代だけでもかなり充実しており、このほかに大量の民具や明治時代の復元民家(室内)もあった。

下記は、いただいたパンフレット。

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パンフレットにもある埴輪は、大木台2号墳出土のもの。

当古墳は直径17mの小さな円墳だが、墳丘には77もの円筒埴輪が二重に廻り、北東側裾部からは「下総型」の人物埴輪9体と馬型埴輪2頭が並んでいたとのこと。

下総型埴輪は古墳時代後期(6世紀後半)の様式だが、木棺1基は墳頂から見つかり、直刀や鉄鏃(てつぞく:矢じり)が出土したそうだ。

 

展示されていた人物埴輪たちは70cmくらいの高さ。「腕が短く、ずん胴で簡略化された身体表現」になっていた。

 

興味深かったのは、吉高立田台第2号分出土の箱式石棺。

本物の石棺に、レプリカの人骨を入れて復元展示されていた。キラキラ光る雲母がはいった薄い石材(黒雲母方麻岩)を組み合わせたもの。

石棺は、「成田新高速鉄道」と国道464号の建設工事に伴う調査でみつかった5基の古墳(いずれも墳丘は削平後)のひとつの「長方墳」(19m×14m、7世紀中頃~後半)から見つかったそうだ。

埋葬施設2ヶ所のうちの一つで、石棺内から6体の人骨が見つかっている。

 

またもや「長方墳」

19m×14mということは、それぞれほぼ1.6倍すると30m×23m(正確には30.4m×22.4m)になる。つまり直前に訪ねた墨小盛田古墳と相似形ということだ。面白い!

 立田台2号墳を検索すると「遺跡ウォーカー」さんのサイトで場所がわかった。「吉高のオオザクラ」のそばで、墨小盛田古墳とは直線距離で7kmほど(こちらも「消滅」とある)

http://www.isekiwalker.com/iseki/345545/

 これほど珍しい形のものが近くに存在するということは同じ系譜なのだろう。

墨小盛田古墳では説明版に「主体部は、箱式石棺が墳丘の南中央に確認されている」とあったが、この印旛歴史民俗資料館展示のものと同様の、きれいな黒雲母片麻岩の石棺であるにちがいないと思う。

 

古墳関連の展示では、もうひとつ「吉高浅間古墳」の発掘調査(現在は消滅)のパネルもあった。

「不整形な円形」の円墳で、長径25.5m、短径22.2m、高さ3.5mで木棺が5基出土。直刀、刀子、鉄鏃、瑪瑙製勾玉、凝灰岩製の管玉、ガラス小玉等の出土品から5世紀中葉から6世紀後半と考えられているが、埋葬施設以外からも墓前祭祀に使われたと思われる須恵器や馬具の一部(轡:くつわ)が出土しているそうだ。埋葬施設の多さ、豊富な出土品の年代差は長期にわたる埋葬地だったことを示している、という。

 

これはまさに流山市博物館で見た「ガラパゴス古墳」と同じではないか。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2014/05/14/231052

吉高浅間古墳があった位置は、こちらも吉高のオオザクラの近くの浅間神社。我孫子の根戸船戸古墳群(ガラパゴス古墳)とは利根川沿いに20kmもない。

 

古墳時代後期の印旛沼周辺では「長方墳」や「ダルマ型墳」など、独自のデザイン感覚を発揮し、共有した人々がいたということがよくわかった。

資料館のおかげで、発見がありました。