前回のつづき。
前日訪れた佐是古墳群とは直線距離で1kmぐらい。平地を隔てて北東の台地にある。
市原市西国吉というこのエリアは、少し前に住宅地として区画整理された場所のようで一戸建てが立ち並ぶ。航空写真でみると住宅地の周囲と真ん中に森がある。
埼群古墳館さんのサイトでは吉野50号墳まであるので、もとは古墳の大群落だったのだろう。
住宅地をウロウロしていたら、緑の盛り上がった一角があった。
・吉野1号墳 前方後円墳 全長45m 古墳時代中期
「南岩崎の舌状台地には、10数基の古墳があり、それら古墳群の中心をなしている」とある。
後円部から前方部。
後円部から東側。
前方部から後円部。
一本東側の道、1号墳の主軸の延長線上に、16号墳が公園内にある。
・吉野16号墳 円墳 直径19m
墳丘上の石碑。
高さ3mある。ブランコやすべり台より、こちらの登ったり降りたりするほうが、子供にとっても面白いのではないか。(もちろん、お墓ですが)
吉野古墳群の他の古墳を回ると、とても時間がかかりそうなので断念して、帰途についた。途中に道の駅「あずの里いちはら」があり、ここにも古墳があったことを思い出して立ち寄った。
キャベツや卵をまず買って、建物裏手の階段を登っていくと、芝生広場が広がった先に大きな墳丘があった。
大きな円周の基壇を登ると最上部は下記のようになっていた。ロープ内は立入禁止。
・釜神古墳群浅間塚古墳(浅間塚)円墳 直径13m (埼群古墳館さんより)
以下は案内板の転載。
浅間塚(せんげんづか)とは、一般に富士山の神霊をうつしまつった塚であり、市内でも江戸時代後期以降には各所でつくられました。
この塚は、明治11年ごろの「浅間大神」の石碑がたてられていたことから、このころに造られたようです。
しかし、この浅間塚は、信仰の塚であると同時に、古墳時代の村長(むらおさ)を埋葬した古墳でもあったのです。
1992年からその翌年にかけて、この台地一帯は釜神遺跡として発掘調査が行われ、弥生時代から古墳時代を中心とする多数の竪穴住居と古墳が発見されました。この結果、この塚も古墳時代前期(4世紀ごろ)の古墳を利用し、さらに盛土を重ねることによって造られていたことが判明しました。
塚の下には、いまなお古墳が保存されています。
浅間塚から南側の眺め。
北側に広がる眺め。国分寺台と市原市役所が見える。
公園の北東隅の円墳のような盛り上がり。
巨木が生えているところも古墳っぽい。
墳丘からは台地下水田も見える。
墳丘から降りた台地端からの眺め。一箇所でも「窓が開いている」と、このような風景に出会える。
だれもいないと思ったら、閉園時間の17時をとうに過ぎていた(門扉がある)
市原ICから3,4kmのところなので、近くへ行かれる際(上総国分尼寺やキッズダム、東京ドイツ村でも)に立ち寄られるとよいかと思います。