墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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流山市立博物館 「弥生土器を熱く語ろう」

前回のつづき。

展示を見た後に、講演会に参加した。都合により午前の部のみの参加。

 

10:00~10:20 主旨説明と弥生時代の概要

まずは時代区分のおさらい。弥生時代のはじまりについてはBC8世紀とすることが多いが、BC10世紀とする説もある(AMS年代測定法)

終わりはAD3世紀、つまり古墳時代のはじまり。

さらに早期、前期、中期(BC1世紀~AD1世紀)、後期(AD2~3世紀)で区分され、関東の遺跡は中期からとなるそうだ。

時代を分ける特徴は、水田耕作と金属器の使用(学校授業を思い出す)

その2つの事象のきっかけは朝鮮半島からの移住により、「在地化(まさに移住)」と「弥生化(もともと居た人が影響を受けた)」によるもの。

灌漑式の水田など、遺跡(例:福岡の板付遺跡)に見られる技術の変化は、徐々に進んでいるのではなく、いきなりドンと移植されている。なぜいきなりなのかの理由は、わかっていない。

 弥生土器はの形態は、主要は3器種で、壷、甕(かめ)、高坏(たかつき)がある。

 

10:20~11:05 流山市加村台遺跡 流山市立博物館 北澤滋氏

千葉県北西部の弥生遺跡は、①江戸川(坂川)、②湾岸(国分谷、大柏川)、③利根川、④印旛沼と大きく4つのエリアに分けられる。(講演プログラムもそれに沿う)

流山市は江戸川エリア。市内には約220の遺跡があるが弥生時代の遺跡は、加村台遺跡と下花輪荒井前遺跡の2つだけだそうだ。

 加村台遺跡は、まさに博物館があるその場所。建設前の調査(昭和51、2年)で弥生時代中期の住居跡5軒が発見され、平成12年の、付近の調査では、V字型断面の環濠も発見されたそうだ。常設展示に弥生時代の集落の様子が再現されている。

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発掘された土器は宮ノ台式といわれる弥生中期後半のもの。弥生後期のものは出ていないので、集落は後期までは続かなかったようだ。

理由としては、この台地は江戸川方向に突き出た場所にあり、台地下の土地で洪水が多く当時の技術では水田耕作に不向きだったからではないかとのこと。

後期まで続く場所は、小さな河川をもう少し遡った谷戸エリアにあったようだ。

このあたりの話は、展示パネルにも解説されていた。

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このほか、弥生土器の模様に関する詳しい説明もあった。江戸川近くのこのエリアの弥生土器は、北関東式と南関東式とが交錯しているそうだ。下記も展示パネルより。

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これまで縄文土器にばかり目が行っていたが、あらためて説明を受けて、弥生式土器のその均整のとれた形のよさに気がつきました。(当時の人も、器の形の美しさに興味がいくようになって、器の形に付加されていていた装飾が控えめになっていった?)

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11:15~12:00 市川市国府台遺跡とその周辺 市川市教育委員会 加藤貴之氏

国府台はその名の通り、奈良・平安時代には下総国の国衙が置かれた場所で、国府台遺跡は南北1700m、東西700mに及ぶが、弥生時代の遺構、遺物が確認されるのは、台地の南端に限られるそうだ。下記の展示パネルがわかりやすい。

弘法寺(ぐほうじ)周辺。

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こちらの古墳には昨年12月に訪れた(崖側の崩落が進んでいた)

 http://massneko.hatenablog.com/entry/2013/12/02/093143

 

弘法寺本堂の改築時の調査で方形周溝墓と環濠が、東側地点の調査では竪穴建物跡が6棟確認されている。

方形周溝墓は環濠の外側にあったこと、土器は南関東系と北関東系双方があり、どの竪穴建物からも8:2の割合で出たので、南関東系の土器を主に使用したムラだということがわかったそうだ。

弥生中期後半に、宮ノ台式土器、環濠、方形周溝墓を使う文化が、東京湾東岸地域からもたらされ、印旛沼周辺や武蔵野台地東端に広がったこと、一方で少し奥まった大柏川流域では、上流の遺物ほど印旛沼周辺地域などの影響が強く、近隣地域でも人々の暮らしは多様だったことがわかるそうだ。

加藤氏のレポートでは、国府台遺跡では弥生時代末期~古墳時代初頭に環濠で囲まれたムラは解体して東京低地など周辺に分散していった様子が見受けられ、その後の古墳、国衙の設置以前から、人々がさまざまな地域を交流しながら生活していた様子がわかるので非常に興味深い、と書かれていた。本当に興味深い話で勉強になりました。

 

このあとの、柏市、八千代市のお話も聞きたかったのですが、ここで失礼させていただきました。貴重な話を聴くことができました。

北澤様、加藤様をはじめ、講師の方々、準備していただいた方々に改めて御礼申しあげます。

 

千葉県は、貝塚の数が日本一、前方後円墳の数も日本一(古墳自体の数は2位)、ということは縄文時代、古墳時代とも、現在の他の都道府県と比較しても人口が多かったのではと想像しますが、その間の弥生時代のことがわからなかった。

今回の講演や展示で、その間1000年の弥生時代にも人の活動があったことはわかった。が、他の地域との比較ではどうなのだったのだろうと新たな疑問が湧いた。

自然や集団間の環境の変化に対応しながら、東海・関東、東日本を広く移動したのか?

静岡の登呂遺跡まで含めて・・・