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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

麻賀多神社(手黒社) 公津原39号墳 成田ニュータウンの古墳⑤

前回からの続き。

「39号」は古墳群の最後の番号。他の古墳は1号から38号まで、台地上を北に向かって連なっていくが、当古墳だけ下図左端の少し離れた麻賀多(まかた)神社にある。

【再掲】10号墳にある案内板拡大図

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・麻賀多神社入り口。境内の右側に古墳が隣り合う。

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・鳥居は、宮島の厳島神社と同形態で主柱の前後に「稚児柱」が付く「両部鳥居」

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 ・案内柱に解説があった。ここは「手黒社」=船形(地名)=奥津宮であり、川をはさんだ隣の台地上に「稷山(あわやま)社」=台方(地名)=本社がある。

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本社の方はサイトが整備されている。樹齢1300年の東日本一の大杉があるそうだ。次の機会にぜひ訪れたい。

http://www.makata-jinja.com/

 

以下は「房総の古墳を歩く」での解説。ただし(本社)と(奥宮)の記載が入れ替わっていると思います)

麻賀多神社は、印旛郡内にある『麻賀多十八社』の惣社で、船形の手黒社(本社→奥宮)と台方の稷山社(奥宮→本社)の2社からなる。手黒社は応神天皇の代に八世孫である伊都許利命(イツコリノミコト)が霊夢を受け、杉の下から七つの玉を掘り出し、鏡とともに祀って麻賀多真大神と称した。下って七代の孫広鋤手黒彦が、推古天皇16年(608)に稷山の地に稚産霊命を移し、ここに二つの麻賀多真大神が成立。延喜18年(918)麻賀多神社に改名。

Wikipedia によれば、当初は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれたが、延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の一つと同名であるとして、一字取って「真賀多神社」に改称され、後に一帯が麻の産地であることから麻賀多神社になったとある。

当社の本殿の後ろにも、杉の大木があった。

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 御神木とあり注連縄で祀られていた。

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社殿の東側に広場のような森がある。大きな広葉樹の木々の根にも祠が立っていた。「房総の古墳を歩く」の解説にあるように、夏は「印旛沼からのそよ風」があれば、心地よさそう。

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木々の間から、うっすらと印旛沼が見えたが写真には写らなかった。

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 麻賀多神社について検索していたら、興味深いブログに行き着いた。

印旛沼周辺の神社が、地図にプロットされている。

 http://magnoliachizu.blogspot.jp/2014/02/blog-post_16.html?view=magazine

神社名の変遷について「コマガタ→マカタ」という仮説が示されてて興味深い。

その他、鹿島神社香取神社の分布や、縄文海進と貝塚の分布など、丁寧で深掘りされた貴重なレポートだと思います。

 

さて、ここからが古墳

神社の玉垣が一部途切れたところが古墳への入り口だった(古墳西側からのアプローチ)

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・伝初代印波国造伊都許利命の墳墓 公津原39号墳

 方墳 東西35m 南北36m 高さ5m 7世紀

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案内柱の裏には、国造の解説があった。

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石室(石棺?)の一部が露出している。

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案内柱の横にも石が置かれている。

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墳丘の南側は直接道路に面している。

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・神社社務所の解説が詳しい。

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こちらは、墳丘への石段がついている。

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墳丘から神社側の眺め。周囲は樹林で眺望はほとんどとれない。

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墳丘には、古墳名の石碑と、元文2年(1737年)の碑(墓誌)がある。

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上の石碑の解説板もあった。道徳的な内容のようだ。

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 墳丘を降りると案内板と鎖囲いがあった。

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・公津原第39号墳横穴式石室 以下案内板(1ヶ月前に設置されたばかり)より。

古墳の中央南辺中央に位置し、軸線はほぼ古墳の主軸(N-15度-W)と並行します。開口部は崩落のため埋まっています。軟質砂岩の切石を積み上げた両袖形横穴式石室で、玄室長3.34m、奥壁幅1.68m、前壁幅1.14mの逆台形の平面形をもつ単室構造です。この横穴式石室と同様な構造を持つ古墳は公津原古墳群には確認されていません。龍角寺岩屋古墳の石室との関連が推定されています。」

f:id:massneko:20140420161818j:plainステンレスが下地の案内板は長持ちするのかも知れないが、板が光を反射して写真に残しにくい。何かいい方法は・・・

 

石室入り口の状況。「房総の古墳を歩く」には、高さ(推定)2.4mとあり、結構大きいはずだが、そんな雰囲気は全くない。空気は通っているようだが、ファイバースコープだったら覗けるのだろうか。

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なんと「埼群古墳館」の昇寛さんは撮影に成功されていた。

 http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/narita_kou39/

 

続く。