墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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六角堂 天王・船塚古墳群10号墳 成田ニュータウン(公津原)の古墳④

吾妻神社から北に150mくらいのところに珍しい形をしたお堂があった。

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宝徳寺観音堂(2011年8月に焼失。2013年12月?再建)

以下は「房総の古墳を歩く」より。

「貞享元年(1684)に近江国柏原村の吉田又左衛門家次が設計したと棟札に記されています。立派な厨子の中には本尊である聖如意輪観音の小像が安置されています。本尊は子育て観音ともいわれ、例年4月8日には八代や八生地区などをはじめ人々が大勢集まり、安産と子どもの健やかな成長を祈る護摩祈祷会が行われます。六角堂形式を持つお堂は、県内でも君津市の鹿野山神野寺に一例あるだけで、建築物、建築史の面からも大変貴重なもので昭和46年に市の指定文化財となりました」

かつての茅葺の六角堂の写真も載っている。

 http://www.haniwakan.com/kenkyu/boso/narita.html

 

以下は別の、WEB上の記録。

「2011年8月5日午前4時20分ごろ、千葉県成田市の宝徳寺観音堂が燃えていると、近くの住民から119番があった。木造かやぶき屋根の建物が全焼、約50分後に鎮火した。建物は、通称「六角堂」と呼ばれる成田市の指定文化財。成田署によると、火の気がなく、不審火の疑いもあるとみて出火原因などを調べている。けが人はなかった。同市教育委員会によると、観音堂は1684年に建立され、1971年に文化財に指定された」

 

こちらのブログには火災後の写真が。

http://masaakikoike.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/300-4cac.html

 

現地では、なんで建て替えてしまったのだろうと思っていたら、ブログにまとめている時に焼失した話を知った。

本当は「復元」したかったのだろうが、再建に携わった方々は、記録や予算や技術などさまざまな課題の紆余曲折を克服されたのだと思う。早く再建できてよかった。

 

軒下の組み物が美しい。

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参道入り口の看板は焼失前のものだった。

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昨春印西市の観音堂を訪ねたが、端正な佇まいが印象的だった。こちらの観音堂も同様の雰囲気を持っていたのではないか。

文化財を「大切だ」と思う気持ちが広がらないと。

【再掲】2013/4/1 宝珠院観音堂(重文:1563年)

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「木隠れ観音」という気になる案内板があった。f:id:massneko:20140420154427j:plain

案内板後ろの木をよく見ても痕跡が見つからない。別の木も探したがわからなかった。

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 あとで調べていたら、今では石仏は完全に木に飲み込まれてしまっているとのこと。(↓かつての観音堂の写真有)

 http://www.city.narita.chiba.jp/DAT/05_1215p24.pdf

 

六角堂を後にして、南に向かう。

1kmほど、吾妻中学の向かいの団地の敷地内に大きな円墳があった。

天王塚古墳から南は、「天王・船塚古墳群」となっている。

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・10号墳 円墳 全長33m 高さ3m

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鉄柵で囲われているが、団地側に門扉があり、内側手前が「リサイクル置き場」のようになっている。鍵はなかったので、入らせていただいた。

墳丘上は結構広い。

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木々と通して、道の向こう、吾妻中学のグランドが見える。

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道路からグランドの眺め。かなり見通しがよい。

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ここには公津原古墳群の全体の案内板があった。

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・公津原古墳群(県指定史跡) 以下は案内板からの引用。

現在の成田ニュータウンとなっている台地は、その昔”公津ヶ原”とよばれ、たくさんの古墳があったことは広く知られていました。(江戸時代末期に出版された『利根川図誌』に公津の八十塚と記されている)

古墳の築造年代は、5世紀代から7世紀代と考えられています。これは昭和44年から46年に千葉県教育委員会が実施した学術調査によって得られた成果ともとに推定したものです。この5世紀から7世紀という時期は、大和政権による東国支配が進められたころです。当時この地域は、印波国という小さな国の中に含まれ、大和政権から任命された国造という地方官の統治下にあったと考えられます。

この吾妻南団地内にある古墳は有力者の墳墓と考えられ、古墳時代の成田を学ぶうえで貴重な文化遺産であるということができます。

成田ニュータウン内の古墳から見つかった副葬品(土器、石製品、武具、馬具など)は県立房総風土記の丘資料館に収蔵されており、その一部が展示されています。

なお、成田ニュータウン内の35基とその周辺に現存する5基の古墳をあわせた40基が「公津原古墳群」として千葉県指定遺跡となっています。

 

右の古墳マップの拡大。残念ながら「番号」がふられていない。

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八代台古墳群の38号墳から21号墳の天王塚古墳までずっと見てきて、吾妻小学校周辺をちょっと飛ばして10号墳まで来た。ここで時間がなくなってきたので、11号から20号までは別の機会にして、39号墳(伝初代印波国造伊都許利命の墳墓)と8号墳(船塚古墳)へと急いだ。

 

40号がないと思ったら、瓢塚古墳群で調査後消滅した一基の石棺が、房総風土記の丘資料館内に移築保存されていた。(下記、埼群古墳館サイト)

http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/narita_hisago40/

【追記】房総風土記の丘資料館の「40号」は「瓢塚古墳群での番号」で「現地標柱の番号とは関係ない」とのことでした。

続く。