墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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八代台古墳群 八代玉作遺跡 成田ニュータウン(公津原)の古墳②

外小代公園を出て南に向かう前に、一旦台地の下に降りてみた。

公園沿いを道なりに北東方向に向かうとJR成田線の切り通しを渡る橋があった。

写真は橋から南側の成田方向。2,30mくらいの深さがある。

 

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北側の下総松崎(しもうさまんざき)方向。台地を抜けて印旛沼沿いに出る。

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橋のたもとは満開の八重桜。

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下に降りて下総松崎駅に向かう道から、八代台古墳群のある台地方向。

ビニールハウスの向こうを左右に伸びる土手は、台地の切り通しを抜けてきたJR成田線の線路。

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同じ道を引き返すと、途中の信号のある三叉路で、整備された新築基壇の上に庚申塔が並んでいた。

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文字は判読できなかったが、左から2つ目には観音像が彫られているようだった。

街道沿いの石碑は、奥が深い民間信仰の分野でフォローしきれない世界だと思っているが、最近よく目に飛び込んでくるようになったので、辞書レベル(岩波国語辞書)での確認。

庚申塚:三猿または青面金剛を刻んだ庚申供養の塔。

道祖神:道路の悪魔を防いで、行く人を守るという神。たむけの神。さいの神。

 

道祖神の方が「民間信仰分野の普通名詞」の感じがする。もともと道教系の庚申塔(塚)や青面金剛(道教由来の明王)、三猿(目、耳、口隠し~これも道教系でもとは古代エジプト?)と、神道系の猿田彦(天孫降臨の道案内)、近世以降の仏教系の馬頭観音(交通手段が馬になったので)などが、入り混じっている世界のようだ。(Wikipediaを自己流解釈)

 

今年になってから庚申塔を撮った写真が増えた。

【再掲】八千代市 根上神社境内 2014/4/12

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【再掲】八千代市 七百余所神社の境内 2014/4/16

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【再掲】柏市 手賀の丘公園 2014/2/24

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【再掲】印西市白幡付近(木下街道沿い)2014/2/24(なぜか全部赤かった)

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寄り道が長くなった。古墳の世界に戻ります。

「房総の古墳を歩く」の「天皇塚古墳」の項の略図を参考に、公園から台地の東辺を南下しながら古墳を探す。もうスタンプラリーな感じ。

まず公園入り口の信号付近に3基。

・29号墳 円墳 全長9m 高さ1m

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・28号墳 円墳 全長14.5m 高さ2m

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28号墳は、道路の反対側から見ると結構大きいことがわかる。

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道路を挟んだ竹やぶの中に27号墳を見つけた。

・27号墳 円墳 全長14m 高さ2.5m

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竹が密集していて中にはいるのは危険。

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そこから100mくらい先、道路沿いの民家の敷地のようなところに26号墳。

・26号墳 円墳 全長10m 高さ1.7m

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その先、100mくらいのバス停付近に25号墳。

・25号墳 円墳 全長9m 高さ2m

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25号墳からは印旛沼も見えた。台地の縁に古墳が点々と続いている。

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バス停の先を左折して住宅地にはいり、八代玉作遺跡を探す。

斜面を造成しているので車の進入できない「緑道」があり、よい散歩道になっている。

とある緑道の先に緑の物体発見。

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・八代玉作(やつしろたまつくり)遺跡【県史跡】 4世紀後半~5世紀前半

玉作遺跡は固有名詞ではなく、「古代において装身具または祭祀用に用いられた勾玉・管玉などの玉類を生産した遺跡のこと」

ここは東日本で初めて発見された玉作遺跡で、昭和37、8年の調査で3件、昭和46年の調査でさらに7件の工房跡が発掘されたそうだ。

「房総の古墳を歩く」には。「玉作遺跡の調査結果から、この地域が早くから大和政権の支配下にあったこと、玉作工房集団がこの地に居住して玉類の生産に当たっていたことが判明した」とある。

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写真部分の拡大。周囲は原野。

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駄ノ塚古墳のあたりを思い起こす。あの周辺は昔の雰囲気を残している貴重な場所ではないか。

http://massneko.hatenablog.com/entry/2014/01/29/070511

 

現在の八代玉作遺跡。一本の木のほかは何もない広場。

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南側は道路に向かって落ち込んでいて、つづら折りのスロープがある。向かい側に玉造小学校があった。

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遺跡の名は「玉作」だが、住所(字)や学校名は「玉造」だった。


続く。