墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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吉見百穴、野本将軍塚古墳、菅谷館跡、稲荷塚古墳

・吉見百穴 

「ひゃっけつ」と記憶していたが「ひゃくあな」とふりがなしてあった。

実際は219の穴があって、そばには推定500以上あったとされる場所もある。

小さなカッパドキアという感じか(行ったことはないけど)

3連休の最終日(10/14)だが、人影はまばら。もったいない。

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弥生式土器を発見し、足利古墳や芝丸山古墳を発掘した坪井正五郎博士は、コルボックル人(土蜘蛛人)の住居説を唱えたそうだ。

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 平成10年の説明版。ヒカリゴケの一文が追加された。

ヒカリゴケは一部の穴の金網の向こうで実際に光っていた。

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 スズメバチ注意書きのリアルな絵。

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ずっと、スズメバチの影に怯える。全然みなかったが。

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整然と掘ってあるのが素晴らしい。

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 墳丘墓が戸建てとすれば、マンションか。ここは天井で形式が分かれるらしい。

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6世紀から7世紀の古墳時代後期といわれている。

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右手斜面。雨の日は滑落しそう。

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 すずめばちを怖れる。

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丘の上からの眺めはすこぶるよい。

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こう見ると確かに巣穴のようでもある。

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大きいものもある。落書きがひどいものもある。

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茶屋にあった戦前の写真。植物が少ないと迫力がある。

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最下段は巨大なトンネルが掘られている。松代ほどではないが結構大きい。

そしてここにも強制労働。3500人といったら松代並みではないか。

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ひんやりとしているが、からっとしている。

岩盤はやわらかそう。ということは崩れやすいということか。

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下のパネルは園内の資料館にて。

東山道は何のためにつくったのだろう。ローマ街道のように兵力を即座に集める、動かすためだったか。

ここ吉見のもともとの長は、534年の武蔵国造の乱ときはヤマト王権と組んだ笠原直使主の側ではなくと上毛野君小熊と組んで負けた笠原直小杵の側だったのではないか。

なぜなら、ウィキベディアには、乱の後、ヤマトに差し出された4箇所の土地(屯倉)のひとつ、横渟(よこぬ) は、現在の埼玉県比企郡吉見町だとある。

しかし逆に、吉見町と行田市は10kmと近く、小杵の根拠地とされる多摩川台とは60kmと遠いから使主の側だったか、どうなのだろう。

乱の後、横穴で埋葬する習慣の渡来人が集住したのかな。

 

残り3ヶ所は、ウィキによれば、

・橘花 たちばな →武蔵国橘樹郡 現川崎市、横浜市東北部(日吉) 

・多氷 おほひ(多末)たま 武蔵国多磨郡 →武蔵国に府中(国府)が置かれたのは8世紀

・倉樔(くらす) -「倉樔」を「倉樹(くらき)」の誤記として、相模国久良郡(くら)、のち久良岐郡(くらき、現 神奈川県横浜市)か

 これらをつなぐと、東山道の支線になる?

f:id:massneko:20131014132515j:plain・野本将軍塚古墳 5世紀末~6世紀 前方後円墳 全長115m 後円部高さ15m

 石碑横の案内板はもう読めない。

 埼玉県の古墳では、あの埼玉古墳群の二子山古墳(136m)、稲荷山古墳(120m)の次に大きい。

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前方部に横から上る階段。上には「忠魂碑」がそびえる。

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前方部から後円部。標高差7mで階段がつく。

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後円部頂上の神社。

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後円部から林の向こうを見下ろす。結構高く感じる。

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後円部から前方部方向。

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下から後円部。

 

昭和53年の案内板。

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さらに引いた眺め。すでにお寺の境内に。

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立派な庚申塔と馬頭観音?

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六地蔵

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小さな鐘だが澄んだいい音色だった。

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 ・菅谷館跡(埼玉県立嵐山博物館)

稲荷塚古墳がその側にあるので、博物館にも展示があるかと思い行ってみた。

が、全くなし。博物館の方に古墳の場所を尋ねたら、丁寧に電話で聞いてくれたが位置は知らなかった。県と町とで管理主体が違うからだろう。

しかし、畠山重忠のことを知れたのと、この広大な館跡を見られてとてもよかった。

はじめは源頼朝に加勢して名を上げたが、後に北条氏に殺される。千葉常胤と同じ時代だ。

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空堀が大きく、美しい。

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南郭のあたり。誰もいなくて不気味なくらい。

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・稲荷塚古墳 7世紀後半 円墳 直径20m 高さ3.5m

菅谷館跡からすぐの中学校の前。平成2年の案内版は読むのが困難。

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墳頂

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墳頂から案内板を見下ろす。

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石室。前室部分。高さは2.7mとのこと。施錠された格子の中にスマホを入れて撮影。

鍵は教育委員会が管理しているとのこと。

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右上の緑泥片岩は新しい。

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ちょっと出ているのが鉄格子。

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小さいけど美しく立派な古墳。

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