墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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特別展 埴輪の世界 @兵庫県立考古博物館・兵庫県加古郡播磨町大中

前回は常設展だったが、今回は特別展「埴輪の世界」を。

この博物館へ来た主目的は、この展示が見たかったから。

 

特別展は一部屋だが非常に見ごたえがあった。

 

入口脇にあった「埴輪編年図」

弥生時代終わり頃の壺形埴輪、円筒埴輪に始まり、古墳時代前期には鶏や家、きぬがさが、中期になって靫や船形が現れ、中期から後期にかけて人物埴輪、そして馬などの動物の形が出てくる。

 

最初の埴輪は岡山県周辺で現れる。

西江遺跡(岡山県新見市・弥生後期)で出土した特殊壺が載る特殊器台。この特殊器台が古墳時代に円筒埴輪へ発展していった。器台の高さは1mほど。

帯の部分には弧帯文(S字を横にした文様)の透かし孔がある。

(説明部分はキャプションから。以下も)

 

こちらも弥生時代後期、岡山県(倉敷市、女男岩遺跡)出土だが、器台の上に住居がのる「台付家形土器」

 

こちらも弥生後期、楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市)から出土した人形土製品。高さ9.5㎝と手のひらに載るサイズで、上半身のみ(割られた状態で出土)だが、優美でオーラが感じられた。岡山大学文学部所蔵。

上衣に横縞が帯状に、腰にベルトのような文様があるが、首飾りが線も刻まれ、その中央に下がる勾玉を細い左手が、右手は並行するように腹部にあてている。
人形埴輪が登場するのは古墳時代中期の5世紀なので、それより2世紀以上早い時期の例になる。

 

こちらは五色塚古墳の鰭付円筒埴輪(古墳時代前期)

突帯が剥がれ落ちた場所に小さな穴や線が残り、工具を使用して突帯の間隔を統一した痕跡と考えられるそう。

 

美園古墳(大阪府八尾市・古墳時代前期)出土の壺形埴輪は国重要文化財。
底の孔は焼成前にあけられたことがわかっている。

 

同じく美園古墳から出土した家形埴輪。外面と、内面の床・壁はベンガラで赤く塗られている

 

2間×2間の高床式住居で、写せていないが高床にはベッド状施設があり線刻で網代状の表現がある。

 

外面の全ての中央柱に、飾りの毛のついた盾が線刻されている。

 

上記の家形埴輪の線刻された盾と、共通の”鋸歯文”が刻まれた盾形埴輪。

大阪市の長原40号墳(古墳時代中期)出土、円筒部に盾を描いた粘土面を貼り付けている。

黒斑は野焼きの痕跡。 

 

こちらは大阪府八尾市の萱振(かやふり)1号墳 (古墳時代前期)出土の、靫(ゆき:矢を入れて背負うための道具)形埴輪。

矢を入れる箱の表面に直弧文が描かれ赤色に塗られる。靫形埴輪は死者が眠る家形埴輪を守るように置かれたそうだ。

 

両側に大きく張り出す背板上部の片側。

この部分は単なる飾りと思われるが、なかなか凝っている。翼のように見せている? 

 

こちらの蓋(きぬがさ)形埴輪は、津堂城山古墳(古墳時代中期・藤井寺市)出土。
蓋は身分の高い人に後ろからさしかけるので本来は長い柄がつくが、埴輪では円筒の上に傘があり、上に立ち飾りが差し立てられる。

 

三重県松阪市の宝塚1号墳出土の船形埴輪はレプリカだが原品は重文。
船上に立体的な飾り物を立てた唯一例で、大刀・威杖・蓋があり、死者をあの世に運ぶ「葬送船」とされるそう。

 

全長は140㎝。

 

東殿塚古墳出土の鰭付円筒埴輪(古墳時代前期・天理市)には、船の線刻がある。

 

船体にオールが7本と操舵用の櫂が表され、左方向にたなびく旗で右に進んでいることがわかる。船首に雄の鶏が描かれ、鶏に導かれて死者をあの世へ運ぶ「葬送船」とされる。

 

裏面にも。 

 

可愛らしい鶏形埴輪は今城塚古墳(古墳時代後期・大阪府高槻市)出土。 

止まり木を脚でつかみ、上を向いて鳴く姿は今城塚古墳以外では珍しい表現だそう。

 

こちらも同古墳のもの。

 

今城塚古墳からは牛形埴輪も。隣の馬形埴輪は神戸市の住吉東古墳出土。

 

今城塚古墳からは女子埴輪。袈裟状の上衣、ワンピース状の下衣、両肩に襷を着用し、大王に奉仕する侍女とされる。

 

足指も表現され、裸足であることがわかる。

 

住吉東古墳(古墳時代後期)からは人物埴輪(頭部)も。島田髷があるのは女性。

 

口元のほほ笑みが魅力的だった。

 

展示のメインは池田古墳出土の埴輪群。 

 

 詳しい説明があった。

兵庫県朝来市 池田古墳出土品 国重要文化財
池田古墳は兵庫県朝来市和田山町に所在する古墳時代中期の前方後円墳で但馬地域を治めた王の墓です。墳丘は三段築成で全長は134.5mを測り、発掘調査で墳丘の南北で造出と渡土堤が極めて良好に残存していることが明らかとなりました。特に注目すべきは水鳥形埴輪が少なくとも24体以上墳丘に置かれていたとみられ、この数量は今のところ国内最多です。また、これら水鳥形埴輪に加え、家形・柵形・囲形・船形埴輪などの形象埴輪が、南側の造出・渡土堤とその周辺から出土しました。この南側が他界(=あの世)を表現したとみられる古墳の正面(入口)であると考えられています。対して、北側の造出では、食物形・土器形の土製模造品が出土しており、この場で飲食物を捧げる供献儀礼が行われたと考えられています。つまり池田古墳では、南と北の造出では、それぞれ異なった機能を有していたことが明らかとなりました。南側の造出を囲む数多くの水鳥の姿は、あの世を理想郷とみせる演出であったと考えられます。

 

右が北造出、左が南造出の出土状況・出土品。

 

北造出から出土した土製品は、ままごとセットのように小さい。
餅状土製品、棒状(アケビ?)土製品、土器形模造品など。

 

南造出では、内側に家形埴輪や船形埴輪、柵形埴輪や円筒埴輪。

 

その周囲をさまざまな大きさの水鳥が列になって進む。

壮麗さというよりも、楽しさを感じました。

 

他に、撮影不可の導水施設埴輪なども展示されていました。

特別展「埴輪の世界」は2019年12月1日まで。おすすめです。

http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000007eho.html

大中遺跡公園・兵庫県立考古博物館常設展 兵庫県加古郡播磨町大中

前回の五色塚古墳へ行く前には、兵庫県立考古博物館を訪ねた。

最寄りの土山(つちやま)駅と垂水駅はJR神戸線で6駅の距離。

 

古墳の香りがする名前の土山駅から、博物館がある大中(おおなか)遺跡までは「歴史とであいミュージアムロード」を通って1.4km。

 

後で知ったが見通しの良いこの遊歩道は、昭和59年に廃線となった別府鉄道跡が整備されたもの。

ところどころに歴史年号プレートが置かれ、25mごとに100年遡って日本史を学べる仕組みにもなっている。

 

最後、大中遺跡へ架かる橋の柵は音階で音が鳴る鉄琴になっていて子どもたちが楽しんでいた。

 

橋の先が公園東入口側。

実は往路はタクシーを使ったので、西入口側から入った。

 

西入口を入ってすぐに、「遺構復元ゾーン」

大中遺跡は、播磨大中古代の村(オポナカムラ~弥生語で大中村)として整備されている。

公式サイトによれば大中遺跡は弥生時代後期~古墳時代初頭の遺跡で、長さ500m×幅180mの約7haの広さ。

昭和37年(1962)に町内の3人の中学生が発見し、昭和42年に国史跡に指定され、昭和47年から「播磨大中古代の村」として整備されてきたそうだ。

これまで調査された面積は全体の2割で、73軒の竪穴住居跡が見つかっているが全部で250軒程と推定されている。内行花文鏡片も出土。

https://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/kyodoshiryokan/kodainomura.html

 

 空が広く、樹々も高く、気持ちの良い空間だった。

出土品は敷地内にある播磨町郷土資料館に展示されている(が、時間の都合で次の機会とした)

 

公園内のストレート道は、駅から続く別府鉄道軌道跡。

 

そしてこちらが兵庫県立考古博物館。

 

常設展示は一般200円だが、今回は特別展とセットの500円を選んだ(特別展、埴輪の世界の内容は次回エントリで)

 

まずは常設展示室へ。最も目を惹くのは実物大の復元古代船。 

史料現物だけでなくレプリカが多く、古代をリアルに”楽しめる”展示構成になっていた。

 

加工した巨木を精巧に組み合わせて造られている。

 

動力は複数の櫂。

 

船底には太さ2mの丸太を繰りぬいてた材が使われていた。

 

縄文人、弥生人、古墳人の胸像モデル。

 

古墳時代前期の坪井遺跡2号墓出土の人骨。
身長161.4㎝の40歳前後の男性だが、埋葬時に足首が切られた跡が見られる。

 

弥生人のシャーマンはリアル。

 

戦闘時の弓の様子もリアル。

 

武具をつけて馬にのる古墳人。 

 

鎧兜の復元。

 

それらが古墳石室に埋葬されている様子も。

 

古墳時代中期(5世紀)に築かれた雲部車塚古墳(篠山市)の石槨レプリカ。鎧が5領、馬具1組、剣8本、刀34本、矢107本が石槨の中から出土した。

石棺は長持形。

 

竪穴式石室なので現地へ行っても石室内は見学できないが、そもそも宮内庁陵墓参考地。

 

兵庫県内の大型古墳を示すパネル。上段右が最大の五色塚古墳、中央が雲部車塚古墳、左が壇場山(だんじょうさん)古墳。

 

埴輪の展示も。

鰭付円筒埴輪や家形埴輪(出土地は撮りそびれたが、五色塚のものか?)

 

東山古墳群(東山2号墳)の横穴式石室出土の須恵器。

 

勝手野6号墳出土の装飾付須恵器の”肩”のところには、猪、矢が刺さった鹿、騎馬人物、相撲風景をあらわす小群像があり、ストーリー性のある情景が表されていた。

 

さまざまな古墳から出土した勾玉、金環、ガラス玉など。

 

修羅(運搬用ソリ)に乗った石棺レプリカもあった(こちらは蓋)

 

反対側から。修羅はV字型の丸太が使われている。

 

日時によっては”身”の中に入れる。

 

レプリカもモデルは奈良県の見瀬丸山古墳のものだが、石材は地元の竜山石が使われている。 蓋と身合わせて重さ9トン。車輪の無い時代に、途方に暮れそうな重さと運搬距離。

 

ちなみに現在の兵庫県の日本海側・但馬地方には、古墳時代の朝鮮半島との交流を伝える伝説がある。その「アメノヒボコの伝説」が分かりやすくまとまっていた。

但馬地方には海外との交流を物語る伝説が残っています。アメノヒボコという新羅の国の王子がわたってきたという伝説で、古事記などの古い書物にも記されています。
1、アメノヒボコの妻、日本へ
今から1500年以上むかし、新羅の国で一人の女性が日の光をうけて赤い玉を生みました。その玉はアメノヒボコの手に渡ると美しい女性になり、妻になりました。しかし、ある時、アメノヒボコがひどい悪口を言ったので、妻は日本へ渡ってしまいました。
2、妻を追い、難波へ向かうも…
馬は大阪の難波で比売碁曾(ひめごそ)神社の神・アカルヒメになりました。アメノヒボコは妻を追って難波に向かいましたが、海峡の神にじゃまをされ、入れませんでした。
3、播磨の神との争い
アメノヒボコは播磨に来ると、土地の神イワノオオカミと争いました。天皇は播磨か淡路に住むことをすすめましたが、アメノヒボコはいやがりました。
4、淀川から近江、若狭へ
アメノヒボコは瀬戸内海を東へ進み、淀川をさかのぼって琵琶湖のある近江でしばらく住みました。その後、来たへ進み、若狭で日本海に出ました。
5、但馬に定住し、伝説となる
アメノヒボコはさらに但馬にわたり、ここで済むことに決めました。そして土地のむすめと結婚し子孫を残しました。 

 

通路には、縄文から江戸期までの地元産土器がずらりと展示されていて壮観だった。

 

博物館の西側入口。建物自体も興味深かったが、時間の都合で次の機会とした。