墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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塚原黄金塚古墳~塚原11号古墳~鎧塚古墳 古墳と桜の飯田紀行(7)

金子二子塚古墳の見学後は、すぐ北側の斜面上にある塚原古墳群を訪ねた。 

 

斜面下から見上げる台地端。

 

ピンクの濃い桜のあたりかと見当をつけて。

 

回り込んでいくと木立の中に墳丘が。塚原黄金塚古墳(塚原10号墳)

今回も、ぺんさんのサイトから孫引きですが、径20.1m×19.1mの円墳で内行花文鏡が出土したようです。

http://pennihonshi.blog.fc2.com/blog-entry-933.html

 

反対側に回ると石室天井と見られる大きな石がありました。

 

墳丘のすぐ南は墓地。 

 

そこから南方向の眺め。左の桜は下から見えていた個体。

 

北方向の畑地に古墳が数基残る。

 

ズームで写った雪山は中央アルプス(右は宝剣岳?)

 

農道を歩いていると塚原11号墳の解説板があった。

塚原(つかばら)11号古墳
塚原古墳群に属する古墳の一つです。
墳丘はわずかに残るだけです。北にある塚原3号古墳・鏡塚古墳・鎧塚古墳と並ぶ位置にある円墳ですが、詳しいことはわかっていません。
平成29年(2017)3月 飯田市教育委員会

 

説明板の下の石が古墳には見えなかったので、ビニールハウスの奥へ歩いていくと墳丘的な高まりが(違うかもです)

 

農道に戻って北方向。道の左右に墳丘が見える。

 

左(西)には鎧塚古墳(塚原5号古墳)

 

墳裾に解説板。飯田古墳群を形成する1基として、国指定を受けている。

国指定史跡 飯田古墳群 鎧塚古(塚原5号古墳)
平成28年(2016)10月3日指定
短甲(鉄のよろい)の出土が知られることから、鎧塚古墳と呼ばれています。墳丘長が推定で45mある帆立貝形古墳で、5世紀後半に造られたと考えられます。埴輪のほか、かつて馬鐸(ばたく:馬に付ける飾り)が出土したとされます。
平成29年(2017)3月 飯田市教育委員会

 

墳頂へ上がらせていただく。

 

いくつか石が置かれていた。

 

墳頂から北東方向、農道を挟んで塚原二子塚古墳。

 

北方向。左端に切れて写った高まりが鏡塚古墳。

鏡塚古墳は、 黄金塚古墳⇒塚原11号墳⇒鎧塚古墳と数10m間隔で一直線に並ぶ北北西方向延長線端に立地していた。

鏡塚も国指定だったが、先を急いでいて通過してしまった。

開善寺~飯田市考古資料館(跡)~金山二子塚古墳 長野県飯田市上川路 古墳と桜の飯田紀行(6)

左の丘上にあった馬背塚古墳から県道233号・時又中村線へ降りて信号の先まで下る。

 

道の対岸には棚田が広がる。古代からの雰囲気を残している風景では。

 

小道に入って開善寺を目指す。

 

ひょっこり顔を出す桜。

 

開善寺本堂。

 

振り返ると、よく手入れされた庭園と、園路がある。

 

そこを進んでいくと荘厳な山門が出現。

 

外側から。

 

境内林の外に説明板。

 

室町期に建てられた山門は重要文化財。

開善寺 郷土環境保全地域
この地域は、開善寺一帯の歴史的に特色のある自然環境を守るために指定されたものです。
開善寺本堂は霊明窟と呼ばれ、仏殿を兼ね、聖観世音菩薩が安置されています。山門は、室町時代初期に建造されたもので、国指定の重要文化財となっています。
この優れた歴史的自然環境を大切に守り育てましょう。
長野県・飯田市

 

上記の地図にもある飯田市考古資料館へ向かうために本堂の方へ戻る。背後の斜面上の建物が気になった。

 

開善寺に隣接する飯田市考古資料館へ行くと、なんと一週間前に閉館となっていた。

 

資料館前の案内図には古墳が多く記される。

 

気を取り直して、案内図にも載っている金山二子塚(かなやまふたごづか)古墳へ歩き出す。

 

直線距離では東に250mだが、川を渡ったり大回りして墳丘へ。

 

墳頂の祠が目印になっている。

 

まず祠にお参り。

 

祠の前からの眺め。

 

祠の下に開口部があった。 

 

傾いた天井石の下は、土砂でかなり埋まっている。

 

カメラだけ差し込んでフラッシュで。

 

奥壁をズームで。

 

冊子「飯田は古墳の博物館」によれば、金山二子塚古墳は全長63mの前方後円墳。後円部径37.2m・高さ7.9m、前方部幅36.4m・高さ6.1m で、6世紀前半の築造。

埋葬施設は横穴式石室が後円部・前方部どちらにもあったが前方部は残存せず、後円部の玄室のみ残るが「赤彩あり」

兜・虎頭鈴・三環鈴・砥石・金銀環・玉類・土師器・埴輪が出土。

9基からなる金山古墳群の主墳で、北側の台地上にある塚原古墳群の後続として造られたそうだ。

 

開口部からさらに降りて見上げた墳丘。

 

南縁の墓地を通って戻った。