墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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清瀧神社・富士塚 千葉県浦安市堀江

今回も浦安の富士塚。

 

清瀧(せいりゅう)神社は東西線の浦安駅から徒歩5分の場所、境川の右岸に鎮座する。

 

一昨年は家族で初詣させていただいた。

 

社殿に向かって左側、鳥居の先に富士塚がある。

 

塚の前には一対の燈籠も。

 

こちらも登拝はできない。苔で麓は緑になりつつあった。

 

大正11年(1922)7月に、従来からあった山が改築造されている。

 

後ろ側には大沢崩れも表現されていた。

 

境内の外から。

 

清瀧神社の富士塚のそばには「水準標石」の土木遺産がある。

 

その説明板。

掘江水準標石
この水準標石は、江戸川や利根川の水位の基準点として設置されたものです。
明治政府は、明治5年(1872)オランダから水工技師団を招きました。そのうちの一人、リンド(I.A.Lindo;1848~1941)が河川計画作成のための第一歩として、この地から水準測量を始め、「堀江水準標石」を設置しました。リンドは、測量の結果、この標石の頂点の高さを基準として江戸川河口の水位ゼロ点の高さをY.P.(Yedogawa Peil;江戸川工事用基準面)としました。Y.P.は、130年以上経った現在も両河川の水位の基準となっています。
Y.P.は、現在の基準となっている東京湾中等潮位T.P.より0.8402m低くなっています。
堀江水準標石は、歴史的土木建築物として、歴史的・学術的に価値が高いとの判断から、平成19年(2007)11月18日、(社)土木学会より選奨土木遺産として認定されました。
平成20年(2008)1月 浦安市・浦安市教育委員会・浦安市観光協会

 

 

浦安市には3つの富士塚がある。前回の豊受神社、今回の清瀧神社、そして当代島にある稲荷神社に。稲荷神社の富士塚には登拝できる。3年前のエントリに載せていた。

 

 

豊受神社・富士塚 左右天命弁財天 千葉県浦安市猫実

昨年あたりから東京近辺の富士塚も巡っているが、地元浦安にも堂々とした富士塚があるので再訪した。

 

まずは猫実(ねこざね)の豊受神社。

 

参道は大通りとは並行に、鳥居は境川の方を向いている。

 

参道脇には大きく開いたような形のイチョウがある。

 

その説明板。

大銀杏(おおいちょう)
この大銀杏は、村の人が境川河口を流れていた小さな木を拾いあげ、豊受神社の境内に植えたものといわれています。その後、この木は順調に成長し、数百年を経た今日も枝葉が繁茂しています。
平成6年(1994)の樹木調査では、明治40年(1907)頃、外周が3mほどの幹が高潮などの塩害によって枯れてしまい、そのまわりに生えていた萌芽枝が大きくなり、現在の株立ちになったことがわかりました。そして近年、現在の株立ちを維持するため、樹木医による樹盛の回復作業も行われました。
この銀杏は雌樹で、幹は6またに分かれ、根の周囲は8m、高さ14mにも及び、ところどころに乳垂状の突起があります。春から夏にかけては緑の葉でおおわれ、秋には黄色い葉とギンナンの実がなり、特に秋風に散る黄色い葉の風情は見事なものです。
平成20年2月 浦安市教育委員会

 

拝殿の北側に浅間神社と溶岩の山が。 

 

残念ながら今は登れない。

 

山頂の祠をズームで。

 

西側に説明板。

 

大正12年に築かれた富士塚で、昭和初期まで富士講が盛んだったとのこと。

 富士塚
「富士塚」は、富士山の分霊を祀る在地の信仰施設として、富士山を模して造られたものです。浦安には、猫実の豊受神社、堀江の清龍神社、当代島の稲荷神社、三つの村の神社境内にそれぞれ富士塚があります。
古来より深い信仰を集めた富士山でしたが、江戸時代の中ごろから、江戸庶民の間で盛んに富士講が結成されるようになりました。それに伴い、富士山へお参りに行けない人でも、富士塚に登って祈願すれば、同様のご利益を得ることができると、各地にたくさんの富士塚が造られました。
豊受神社の富士塚が造られたのは、大正12年(1923)のことです。もともと豊受神社の一隅に浅間神社を祀った小さな山があり、氏子たちはその上に畑の土を盛り、墨石(ぼくせき:富士山の溶岩)を購入して、富士山をかたどった大きな山を築きあげました。山の中腹には中道まわりという道を造り、木花咲耶姫命を祀った石造りの浅間神社を頂上に安置しました。
大正から昭和の初めころまで、浦安の富士講は大変盛んで、毎年6月30日になると、神前に神楽が奉納され、境内は露店が立ち並んで賑いました。講の人たちは、井戸水で水行をとって体を浄めたあと、まっ白な行衣に白い帯を締め、手甲脚絆に菅笠をかぶった富士登山と同じ姿で、金剛杖と鈴を持ち、「六根清浄」と唱えながら、地元の浅間神社を参拝しました。そして、翌7月1日、富士山の山開きへと出発していきました。
このように盛況を極めた富士講でしたが、戦後は影をひそめていきました。
平成26年(2014)12月 浦安市教育委員会

 

南側から。 

 

天狗の像もある。

 

麓には三峰神社も。

 

豊受神社から大通りを渡って路地を入って左右天命弁財天へ。

以前大晦日の夜に豊受神社へお参りした際、案内の電灯に導かれて参拝した。

 

突き当たりの手水舎で左を向くと鳥居がある。

 

鳥居をくぐって祠にお参りした。

 

前回夜に来た時には気がつかなかったが、祠の周囲は池だった。

 

住宅地の中だが、深く掘られていた。

 

説明板がある。

猫実の弁天様
明治17年(1884)10月、川島という人が建立した。この弁天様は猫実の弁天様といい、左右天命をお祀りしてある。
弁天様は灰やのくるわに災害が起る前には、女の姿になって現われ、災害を未然に教えたり、大津波の襲来を予告したりして常に霊験あらたかなところから、信者が多く、特にくるわの人々は付近の守り神として崇拝している。
大正6年(1917)の大津波で堂宇が流失してしまったので、くるわの人達は浄財を持ち寄って弁天様を再建した。
堂宇の中には、行徳の後藤仏具師の作による弁財天が本尊として安置してある。
灰やのくるわの人々は、毎年1月、5月、9月の3日にお祭りをしている。
平成2年3月 浦安市教育委員会

 

左右天命とは?、灰やのくるわとは?と気になるところがあったが、ちょっと検索しただけではわからない。

 

平成23年の浦安市文化財審議委員会の議事録がヒットして、委員の発言に「この一帯に川島某さんの「貝灰工場」があった」ことや、「くるわの意味としては、遊郭的なものではなく、「寺うしろ」を指しているかもしれない」などと記されていて興味深かった。

https://www.city.urayasu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/144/bunkazai23_06.pdf

 

手水舎の後ろの三地蔵。 

 

地蔵の前から来た道を振り返って。