墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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新田橋 洲崎神社 東京都江東区木場

今回もストックしていた写真から。昨年10月初旬に訪ねた新田橋と、そのすぐ南に鎮座する洲崎神社。 

富岡八幡のそばにある旧弾正橋(八幡橋)へ行った際に、近くに旧橋の遺構が置かれていた。


架け替えられた新田橋は東西線木場駅のすぐ南側にあった。

 

永代通りから細い枝道を入るとその先に橋への階段があった。

 

欄干も赤く塗られ、神社の橋のような雰囲気。 

 

現地の説明板。旧橋のそばにあったものとほぼ同じ内容。

新田橋
新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて。近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
平成12年の護岸整備により現在の橋に架け替えられましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保存されています。

 

対岸には船宿があった。 

 

振り返って永代通りの方向。

 

橋の上から東側。

 

こちらは西側。首都高9号深川線が見える。

 

南側の階段。小さな橋だが駅に近いので大勢が利用していると思われる。

 

橋を降りてすぐ、洲崎神社の鳥居があった。

 

入口近くにあった御由緒。元禄13年に江戸城中の紅葉山からこちらに遷座したときは、海辺の島の上だったという。

洲崎神社由緒
当洲崎神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊祭神市杵島比命を斉祀しております。創立は徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳なところであったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
明治5年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斉して居りましたが昭和43年現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。

 

江戸期の様子を調べていたら国会図書館のサイトに俯瞰絵図があった。

北東上空からの眺めで左に洲崎弁財天、右上が江戸城方向で、長い砂浜は潮干狩りの人々で賑わっている。中央やや右は伊豆の山か。

「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」 by一立斎広重

洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図を新しいウィンドウで開きます。

国立国会図書館デジタルコレクション・錦絵で楽しむ江戸の名所より

http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail377.html?sights=suzakibenzaitennoyashiro;tokyo=koto

 

現在の境内。

 

境内の一画に都教育委員会による説明板があった。

 

新しく建てられた津波警告の碑の後ろに、200年以上前の碑があった。

東京都指定有形文化財(歴史資料)
波除碑(なみよけひ)
所在地:東京都江東区木場6-13-13
指定:大正13年2月5日 府仮指定
寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。その広さは東西285間余、南北30間余、総坪数5467坪余(約1万8千㎡)に及んだ。そして空地の両端の北側地点に、波除碑を二基建立した。建設は寛政6年頃で、当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。
現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋碑は上部約3分の2を失っている。碑文は屋代弘賢と言われているが、二基ともほとんど判読不能である。「東京市史稿」によれば、「葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少からす此後高なみの変はかりかたく流死の難なしといふへからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの也 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。
材質は砂岩で、総高は平久橋碑が130.8cm、洲崎神社碑が160.1cm。現在の位置は、旧地点を若干移動しているものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な資料である。
平成23年3月建設 東京都教育委員会

 

こちらが寛政6年(1794)頃に建てられた碑。 

 

戦災殉難者供養塔と地蔵様に新しい花が供えられていた。

愛宕神社・出世の階段(愛宕男坂) NHK放送博物館 愛宕隋道 清岸院 青松寺 東京都港区愛宕

年が明けて1月2週目に愛宕神社へ参拝した。

 

こちらは一昨年(2016年)秋に参拝したときの写真。ストックしたままになっていた。鳥居の色が塗りなおされる前の状態。 

 

今年は1月1週目に訪ねたが、参拝を待つ列が長かったので翌週に出直した。

 

1週目では石段の左右に提灯列があった。

 

2週目の石段。愛宕男坂(出世の階段)は標高25mの愛宕山を急角度で一気に上る。

「出世の石段」のいわれは神社のサイトに詳しい。徒歩で上るのも怖いくらいの斜度だが、明治、大正、昭和の各時代で実際に馬で上った人がいる。

http://www.atago-jinja.com/trivia/

 

北側の女坂もかなり急。 

 

愛宕山は天然の山で、江戸期には見晴らしの名所として賑わったそう。

こちらのサイトには明治期(1890年代)の眺めが写っているが、素晴らしい景色。

OLD PHOTOS of JAPAN: 愛宕山からの眺め 1890年代の東京

 

愛宕神社のすぐ南側の地続きにNHKの放送博物館がある。

大正14年(1925)にラジオの本放送が始まった場所で、1956年に世界初の放送専門博物館として開館した。

一昨年ここに来た時には広場を守る(?)猫がいた。

 

博物館では放送機材や放送番組に関連する貴重な展示を無料で誰でも見学できる。

 

放送スタジオのセットも。

 

昭和のお茶の間の再現。

 

興味深かったのは昭和の時代のドラマなどの一部を動画で紹介している展示(撮影不可)

現在(2018年1月28日まで)企画展「ヒロインたちの肖像・連続テレビ小説ポスター展」が開催されている。1961年の「娘と私」に始まり「わろてんか」で97作目となるそうで、主役女優メインのポスター群は大変貴重な史料!

http://www.nhk.or.jp/museum/event/project_index1.html

 

このほかシアターで8K映像を鑑賞できたり、番組公開ライブラリーや図書・史料ライブラリーを利用することもできる。

 

放送博物館前の広場の端に、愛宕山を西側に降りる階段があった。

 

なかなか急な細道。

 

崖面にへばりつくような小路を降りる。

 

最後は愛宕隋道の西側に出る。

 

愛宕隧道の内部。内壁は最近の耐震工事できれいになっているが、竣工は昭和5年(1930)と古い。車道は東から西への一方通行。

 

東側のトンネル入口(2018年1月)

 

トンネルの左側には山頂へのエレベーターがある。 

 

1階の次は山頂の2階。

 

振り返った先にNHK放送博物館がある。ここを使えば急斜面を歩かずに愛宕神社に参拝できる。

 

エレベーター塔には階段もついているが、途中から斜面に沿った遊歩道がついている。

 

愛宕山の東側を眺めながら歩く。

 

結構な上り道もある。

 

ワイルドな雰囲気の植生もあった。

 

 

愛宕山の山塊はNHK放送博物館の南側へも続いているが、途中にお寺の境内と2棟の高層マンションがあるので、一旦南側の大通りの峠道(?)へ回った。

「芝学園下」の信号のそばに清岸院への参道(エスカレーター)がある。隣の石段の先から振り返ると東京タワー(2018年1月)

 

大展望台の色は2016年10月の写真が本来の色。

 

足元の石段。

 

石段から左の道は民家の屋根の高さ。

 

その先は空地で行き止まりだったが、2018年1月では立派なお屋敷が建っていた。

 

清岸院の東側には、マップに「芝青松の杜」と記されるスペースがあった。

 

「智正庵」という青松寺の施設(お茶室?)がある、とても静かな場所だった。

http://seisyouji.p1.weblife.me/chishouan/chisouan.html

 

そこから東の麓へ降りる道があった。奥が愛宕グリーンヒルズMORIタワー。

 

MORIタワーの裏側を回っていくと青松寺の山門(2階)へ出る。 

 

以前に来た時は山門の2階扉が開いていて、門の上からの眺めが得られた。

山門上から青松寺境内。

 

外側、通りの向こうに慈恵大学の建物が見えた(2016年10月)

港区ゆかりの人物データベースサイト 慈恵大学によれば、こちらは慈恵大学2号館F棟で、昭和5年(1930)に東京慈恵会医院として皇室下賜金と篤志家の寄附で建てられた。4階建ての鉄筋コンクリート造で設計は東京慈恵会建築部、施工は間組。

東京慈恵会病院は、幕末に生まれて軍医を勤め脚気を撲滅した医師・高木兼寛らが明治15年(1882)に設立した、「貧しい病者のための施療施設」を前身としている。

https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?name=高木兼寛

 

ズームで(2018年1月)