墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国宝・那須国造碑と秀衡街道跡 栃木県大田原市湯津上

前回のつづき。

侍塚古墳群へ向かう前に、その近くにある笠石神社へ、神社の御本尊でもある那須国造碑(国宝)を参拝した。

 

鳥居の前に駐車場がある。

 

社務所へ行くと宮司は不在だったが、家の方(?)に御堂を開扉していただけた。

(拝観料一人500円)

 

囲いの扉の鍵が開く。 

 

さらに御堂の扉の鍵が開く。

 

すると御堂の中心に152文字が刻まれた、高さ148cm、笠のような石を上に載せた石碑が立っていた。撮影禁止だが大田原市観光協会のサイトに写真があった。

http://www.ohtawara.info/spot_detail.html?id=44

 

現地の解説板。西暦700年頃、飛鳥時代の古碑。長い間埋もれていたので文字がよく残る。江戸期に発見され、御堂を建てて安置させたのは水戸光圀だった。

国宝 那須国造碑(なすのくにのみやっこのひ)
昭和27年11月22日指定 総高:148cm 石材:花崗岩
この碑は、西暦700年頃に、那須国造であった那須直韋提(なすのあたいいで)の遺徳をたたえるため、その息子と思われる意斯麻呂(おしまろ)によって建立された碑です。文字の刻まれた碑の上に笠状の石を載せた特異な形をしていることから、この地域では「笠石さま」と親しまれています。
碑には、8行に各19字ずつの計152字が刻まれており、その書体には中国の六朝時代の書風が感じられます。また、碑文冒頭には「永昌(えいしょう)」という唐の則天武后の時代に使用された年号が用いられているなど、その当時に大陸や半島から渡来してきた人々の影響が色濃く残されています。
この碑の保存には、江戸時代の水戸藩主、徳川光圀も関わっています。長い間倒れ埋もれていたこの碑を、磐城の僧(円順)が発見し、小口村梅平(現那珂川町)の名主、大金重貞に話し、それが、徳川光圀へ伝えられました。そして、この碑が貴重なものであることがわかったことから、元禄4年(1691)碑堂を建て碑を安置しました。これが、現在の笠石神社となっています。
なお、多賀城碑(宮城県)・多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑として知られています。
大田原市教育委員会

大田原市のサイトで碑文を読める。

http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082778383/

 

那須というと温泉や牧場のある新幹線より西側をイメージしていたが、古代の那須国の中心はまさにここ、現在の大田原市を中心とする地域であったとのこと。

地名の由来は、那須町のサイトでは「那珂川の中洲」の意が最初に紹介されている。

http://www.town.nasu.lg.jp/hp/menu000000300/hpg000000236.htm

一方で那珂川の名は文書では室町期までしか遡れないようなので気になるところ。

http://www.ktr.mlit.go.jp/hitachi/kasen/naka-gawa/about-naka.htm

 

蛭田富士山古墳から笠石神社へ向かう途中に「秀衡街道跡」という史跡があった。

大田原市指定記念物(史跡)
秀衡(ひでひら)街道跡
昭和41年2月15日指定 所在地:大田原市蛭田
ここから東方を流れる那珂川に沿って、都と奥州を結ぶ古代の道 東山道が南北に延びていたと考えられています。平安時代末期に栄華を誇った藤原秀衡ほか奥州藤原三代の影響もあり、東山道や後の鎌倉街道には秀衡街道と呼ばれていたところもありました。
この地の秀衡街道は、その道筋から、本堂につながる脇道としての役割を果たしていたものと考えられています。ここから北方の金子山付近には、かつて「秀衡山」や「秀衡窪」という地名もあり、そこを経由して黒羽地区の余瀬(よせ)方面へと通じていたものとみられています。
大田原市教育委員会

 

標柱の背後、北の方向。

少し窪んだところ、白い花(蕎麦?)が一面に咲いているところが東山道(の脇道?)の跡のようだ。

 

古代の道と古墳が築かれた場所との関連も非常に興味深い。

蛭田富士山古墳 栃木県大田原市蛭田

10月上旬、以前から訪ねたかった那須(といっても大田原市の南部と那珂川町の西部)の古墳を巡った。

那珂川とその支流の箒川に沿って古墳群が残るエリア。「関東古墳ベストガイド」に紹介されている中で最後に残っていた上侍塚古墳・下侍塚古墳がある。

 

東北道の矢板ICで降りて最初に向かったのは蛭田富士山古墳。

 

最後の方は農道のような狭い道を入っていくと、農家のそばの畑に囲まれた傾斜地に墳丘があった。

 

次第に読めなくなりつつある説明板。

全長40mの帆立貝式前方後円墳で、築造年代は5世紀末~6世紀前半と考えられるそうだ。

蛭田富士山古墳(ひるたふじやまこふん) 湯津上村指定史跡
所在地:湯津上村大字蛭田
墳形:前方後円墳
規模:全長40m、後円部径27m、後円部高さ3.5m、前方部幅10.5m、前方部高さ1.3m
この古墳は、前方部の規模が後円部の規模に比べて極端に小さい「帆立貝式前方後円墳」という形をしています。
かつてこの古墳の周辺には、小古墳が多数あって、古墳群を形成していましたが、開田などによってほとんど消滅してしまいました。昭和44年、この周辺の土地改良事業が進行する中、石を箱形に組み合わせた箱式石棺や横穴式石室が発見されたことから、昭和45年、栃木県教育委員会により発掘調査が実施されました。
調査の結果、円墳跡4基のほか、周溝等のない単独の埋葬施設(箱式石棺、小型竪穴式石室、土壙)や横穴式石室、竪穴式住居跡が確認されました。特に円墳跡は、箱式石棺を主とする複数の埋葬施設をもった珍しい古墳であることがわかりました。
蛭田富士山古墳は、墳丘の形態等から5世紀末から6世紀前半代に、発掘調査により確認された円墳跡などは、5世紀代から7世紀初頭にかけて築造されたものとみられています。
大田原市

 

前方部右裾あたりから後円部。小さな野草が沢山咲き誇っていた。

 

くびれ部の上に立つ鳥居を最初に見たときはドキッとした。

 

横から見た後円部。

 

斜面は結構草深い。

 

後円部の先の風景。

 

墳裾に沿って周囲を巡る。

 

前方部の裾で草丈が低いところがあったので、墳丘に上がらせていただいた。

 

前方部から後円部。

 

くびれ部の鳥居には独特の形をした注連縄。あとで大田原市歴史民俗資料館の方に伺うと、このあたりではこのようにぶらさげるタイプが3種類になるそうだ。

 

後円部上には小さな祠があった。

 

後円部上からのパノラマ。北西方向。

 

北方向。

 

農道から遠望した墳丘。

 

ズームで。

 

ということで、しばらく古墳シリーズが続きます!