墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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島薗邸 東京都文京区千駄木

3月4日の土曜日、墓参と富士塚探訪の帰途に、文京区千駄木にある昭和初期建築の島薗邸を訪ねた。

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昭和7年(1932)に建てられ、昭和16年(1941)に2階部分が増築された個人住宅で、現在も島薗家が所有る。

住居としては使われておらず、たてもの応援団という地域のボランティア団体が月2回公開を運営している。第1・第3土曜日の11時~16時、入館料一般300円。 

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通りから見える建物。

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住宅の南側の行き止まり道にも塀は続いていた。

 

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庭の木々の向こうに2階のベランダが見える。

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 門から中へ。

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塀と建物との間。

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一階の軒下には軽快な感じのレリーフが回っている。

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玄関扉の横の灯り窓。

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内側から見ると、一ヶ所ガラスが透明になっていて来客を確認することができるようになっている。

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ベンチもある玄関。

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布目地のタイルが貼られている。

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ベンチに座って右手を見ると・・・

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玄関入ってすぐ右手が書斎。

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島薗家は代々和歌山の医者の家系で、順雄氏は明治39年(1906)年生まれの生化学者。脚気とビタミン不足との関係を発見した東大医学部教授の島薗順次郎氏の長男。

島薗家住宅は島薗順雄(のりお)氏の結婚を機に昭和7年に建てられている。

 

壁面がほぼ書棚で、残っている蔵書も価値が高い。

設計者の矢部又吉はドイツに留学していて、建物にはドイツ風の意匠が随所にみられるとのこと。登録文化財 島薗邸

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書斎の隣にサンルーム(奥の部屋)があり、手前側の居間へとつなっている。

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サンルームに置かれていた設計者についての解説。 

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建築家・矢部又吉(1888~1941)
横浜本町生まれ。工手学校(現在の工学院大学)を卒業後妻木頼黄に師事して建築を学び、その後ドイツに渡りベルリンのシャルロッテン工科大学(現在のベルリン工科大学)建築科で学んだのち各地に遊学する。帰国後は東京と横浜に建築事務所を開設。作品には川崎銀行本支店をはじめ多くの銀行建築がある。住宅建築も多く手がけたようだが、一般にはあまり知られていない。残存している旧島薗邸は貴重な建築遺産といえよう。作風は、留学したドイツで学んだヨーロッパ古典様式を生かした洗練されたものである。


島薗家の設計
島薗家には設計段階での紆余曲折を示す多くの図面やスケッチ、工事に関わる見積書、請求、領収、清算書など、多くの資料が残されている。
設計図の中には、施主である島薗順雄が描いたものと推定されるスケッチがあり、それをもとに矢部又吉建築事務所で基本設計図面が描かれたと思われる。計画段階では2階建て案や、実施案とは逆に洋館と和館が一体化した案もあり、何度も試行錯誤を重ねたことがみてとれる。
その後の詳細な設計の段階でも、やはり順雄が描いたと思われる、書斎の本棚や納戸の造り付け収納に関するスケッチがあり、順雄の家づくりへの並々ならぬ思い入れが伝わる。

 

解説パネルの右側は、代表作として川崎銀行佐倉支店と川崎銀行本店(明治村に移築)の写真があるが、現在千葉市美術館があるビルの1,2階部分に復元されている旧川崎銀行千葉支店も矢部又吉の設計になる。

 

 

建物についての解説もあった。 

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建物の特徴
島薗家住宅は、西に洋館部、東に和館部が配置された「和洋並置式」で建てられています。
洋館部分の外観は、1階庇廻りにめぐらされたレリーフ状の連続装飾や、アプローチのトレリスなど、ドイツ建築に見られる装飾や、昭和初期に流行したスパニッシュ様式の意匠を見ることができます。洋館部分の屋根はフラットルーフで、内樋が設けられていました。
昭和16年に増築された2階洋室には、軍艦や戦闘機がデザインされたステンドグラスがあり、当時の時代背景を映しています。
2001年に国登録有形文化財となりました。

建物の概要
竣工年:1932(昭和7)年 1941(昭和16)年2階増築
設計:矢部又吉(増築部 古賀一郎)
敷地面積:約485㎡
延床面積:242.88㎡(1階:175.50㎡、2階:67.38㎡)

 

 「和洋並置式」がよくわかる建築模型。 平屋建ての建築当初の形。

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サンルームから庭への出入口。 

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 天井の木の梁がアクセントになっているが、機能的な雰囲気の居間。

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 戸棚は埋め込み式。

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戸棚の中段右の壁は、扉が開いて向こう側と連絡している。

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”向こう側から戸棚越しの居間方向。この背面に台所があって、ここから配膳ができたそうだ。

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廊下脇にあるこのスペースは電話室でもあった。

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廊下の右が電話室、左が台所(非公開)

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廊下を伝って和室の方へ。

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二間続きになっている。戦時中(?)はここで別の家族が暮していたこともあったそう。

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和室の縁側の天井。

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ガラス窓越しの庭。

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廊下を戻って洋室の上にある2階へ。

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廊下の脇にあった、バスの降車ボタンのようなスイッチ。 

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階段脇のこのパネルは各部屋の名前の上に丸窓があり、上記のスイッチを押すと窓の中の紙が電気仕掛けで赤・白に反転して、「お呼び出し」を知らせるようになっているとのことだった(現在は動かない) 昭和初期に今のチェーンレストランの仕組みが個人宅にあったとは。

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階段を上がって振り返ったところ。

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2階は洋間と和室の二間続き。天井の高い造りの洋間には暖炉があった。

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暖炉の上のステンドグラスは増築当時(昭和16年)のもので、戦闘機や戦艦が描かれている。 

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洋間の椅子も当時からのもの。

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和室の床は一段高くなっていて、洋間で座っている人と目線の高さが合うようになっていた(和室は1階も2階も部屋の外からの見学)

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随所に工夫が凝らされた、 居心地が良さそうなお宅だった。

 

島薗邸の前の道を100mほど北に進むと旧安田楠雄邸もある。

安田楠雄邸の方は、毎週水・土に見学できるので、島薗邸へ行かれる際に一緒に見学するのがよいかと思います。見事な枝垂桜があります。

massneko.hatenablog.com

 

「海の向こうから見た倭国」 高田寛太著

3世紀後半から6世紀前半の”古墳時代”の日朝関係の歴史を、日本列島と朝鮮半島南部の古墳を手掛かりに読み解いていくという非常に興味深い本でした。

 

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)

 

 

 日本各地にに築かれた朝鮮渡来系の古墳や、韓国南部に築かれた倭系の古墳を、立地や築年代、構造や副葬品を丹念に見ていくことによって、「倭国+百済連合」対「新羅」などという単純な構図ではなく、各地方が戦略的に外交的つながりを持とうとした動きがあぶりだされていくように感じました。

 

朝鮮半島南部では高句麗の南下が契機となり、新羅・百済・伽耶国などが互いに対立や連携する際にそれぞれが倭との関係をカードとし、一方で日本列島側でも北九州(磐井)や吉備での”乱”など各地が地域の存続・繁栄のために、ヤマト王権との関係だけではなく朝鮮の各地とも連携していたことがわかります。

 

半島と列島で交流の橋渡しをした人びとの痕跡が、日本・韓国の双方の古墳に残されていますが、「当時の境界を往来しながら倭と朝鮮半島を結びつける役割を担った、いわば境界に生きる人びととして評価することが、より重要である」(本書187頁)という著者の言葉に共感しました。

 

著者の高田貫太氏は1975年生まれで岡山大学で考古学を専攻され、韓国慶北大学へ留学され現在は国立歴史民俗博物館の准教授。

冒頭は瀬戸内の女木島の古墳探訪から、さらに韓国での現地調査や学生時代の発掘調査の様子などがその場にいるような筆致で書かれ、わくわくしながら読み進めることができました。

 

古墳ファンのみならず、日本古代史や日韓関係に興味がある方、また旅行好きの方にもおすすめの一冊だと思います。

 

 

・追記

調べていたら著者ご本人による”サイドストーリー(?)”が講談社・現代ビジネスのサイトにありました。

gendai.ismedia.jp