墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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横須賀中央駅~中央公園 神奈川県横須賀市深田台

前々回のつづき。

横須賀市自然・人文博物館を訪ねた際に、魅力的な細道、坂道を通ったのでその報告を。

京急の横須賀中央駅はホームの両端の先がすぐトンネルという山際にあり、東口を出て右へ向かうと通りはすぐに上り坂になる。 

博物館の方角に魅力的な階段道がありスマホで確認すると通り抜けられそうだったので、そちらを行ってみることにした。

 

登り始めてすぐ小休止。振り返ったところ。

 

味わい深い石積み。

 

道はコンクリの斜路になった。

 

こちらは個人宅で行き止まりだった。 

 

折り返しのスイッチバック。右の道を進む。

 

擁壁は時を経た様子の石積み。

 

崖下側の住居跡。斜面にへばりつくように建っていたことがわかる。

 

擁壁の形もさまざま。

 

そろそろ頂上か。

 

崖下の横須賀中央駅をズーム。

 

登り詰めた先に墓地とお寺があった。

 

本堂に向かって墓地の石段を下る。

 

銅の瓦の大きな本堂。

 

龍本寺は「横須賀風物百選」に入っていた。

市制施行70周年記念 横須賀風物百選
龍本寺
この猿海山龍本寺は、昔から「米ヶ濱のお祖師様」と呼ばれて親しまれてきました。
建長5年(1253)5月、日蓮上人は布教のため鎌倉に旅立ちました。房州西海岸の南無谷から船出したが、途中にわかに海が荒れ、老朽船のことでもあり、船底に穴があき海水が浸入してきました。船底にあわびが密着していたと伝えられています。
船は程なく豊島(現在の猿島)につき、聖人は一先ずこの島に上陸しました。すると一匹の白猿が近づいてきて、法衣の袖を引き、陸の方を指しました。聖人は再び船で白猿の指示した岬へ向かいましたが、ひどい遠浅の濱で船が進みかねていると、すそをからげて船に近づき、聖人を背負うと此の岸辺にお連れした人がありました。この人は今に連綿と伝わる公郷村(現在三春町)石渡家の先祖、石渡左衛門尉でした。この人の足から血が流れているのを見て、聖人は人々がさざえの角で傷つくことがないようにお題目をお唱えになりました。それ以後、この濱でとれるさざえには角がなくなったと伝えられています。
これらのあわびとさざえは寺の霊宝として格護されています。
聖人はこの濱の恰好な岩窟の中に座を占め、37日間にわたって祈願した後、鎌倉へ出立しました。
聖人によって法華経に帰依した石渡左衛門尉は他の人々とはかって、ここに草庵を建てました。これが御浦法華堂で、後に龍本寺となりました。この御浦法華堂こそ、宗門最初の霊場です。
本堂入口を飾る「聖人垂跡」の大扁額は、明治大正時代の書壇の巨匠中林梧竹の墨蹟です。

 

両脇にイチョウの大木があった。

 

本堂前の石段下から。

 

道なりに車道を下っていくと左右に魅力的な石段道が現われる。

 

こちらも、傾斜や曲り具合が絶妙。

 

途中で「中央公園」のサインがあったので、先に寄ってみることに。

 

車道の急坂を進むと公園入口があった。

 

解説によると明治24年から昭和20年まで、陸軍の砲台(米が浜演習砲台)があった場所だった。

昭和52年市制施行70周年記念 横須賀風物百選
中央公園
優れた景観を一望に収めるこの公園は、文化会館建設事業の一環として、昭和39年から5年半の歳月と、約5千万円を投じて昭和45年4月1日に開園したものです。
公園の広さは約3.8haで、サクラやウメ、カンツバキ。ジンチョウゲ、ツツジ、サツキ、サザンカなど一万本に近い四季折々の花木を中心に整備してあります。
明治初年以来、横須賀は、海軍港を中心に発展してきました。一方で陸軍は、首都東京を中心とする東京湾一帯の防衛上から、明治13年に第一号の砲台を市内の観音崎に築いて以来、その数は三浦半島に28ヶ所にのぼります。
ここもその一つで、明治24年から第二次世界大戦終結までの約55年間「米が浜演習砲台」となっていた所です。
これらの砲台は、終戦とともに取り壊されていきました。そのような状況の中で、この公園は、砲台があった当時の地形をそのまま巧みに利用して、変化に満ちた散歩道や展望広場などを整備したものです。
園内の東端に建つコンクリート製の塔は、戦没者慰霊塔で、船のへさきをかたどってあり、高さ8.7m、長さ31mあります。この塔は、明治27年の日清戦争から昭和20年の第二次世界大戦終結までの市内出身戦没者約4700柱の霊を慰めるために建てられたものです。また塔内には、第二次世界大戦中の戦没者約4千柱の写真や戒名札と、戦場となった外地から採集した土砂が納められています。
毎年8月15日に市主催の「横須賀市戦没者追悼式」が行われます。
また平成4年10月には、核兵器廃絶・平和都市宣言の意思を内外に示すものとして、平和モニュメントを建設しました。このモニュメントはステンレス製で高さ約20mあり、核兵器のない平和の宿る天上界(宇宙)とわれわれ人間の住む地上とが対話できるシンボル(発信基地)として制作されました。

 

最上部からの眺めは素晴らしかった。

 

さらに左をズームすると横浜ベイブリッジも。

 

東京湾の対岸、千葉県富津市の東京湾観音もちらりと。

 

猿島も見えた。

 

ズームで。地図で見ると奥行きの方が長い。

30年近く前に行って、ぬかるんだ煉瓦トンネルを歩いたりした記憶がある。久しぶりに行ったみたくなった。

 

南東側。少し先に慰霊塔が立つ。

 

核兵器廃絶・平和都市宣言のモニュメントは平成元年の築。

 

斜面を降りていくと博物館へとつながっていた。南国風の木が植えられていた。

つづく。

「石棺に苔(コケ)」の記事 @市尾墓山古墳 奈良県高市郡高取町

昨年秋に訪ねた古墳のことがニュース(2017/2/8の毎日新聞)になっていた。

6世紀初めの前方後円墳で、刳抜家形石棺が収められている後円部の横穴式石室をガラス扉越しに見学したが、凝灰岩の石棺が水を吸ってコケが付着し石材が劣化する恐れがあるそう。

http://mainichi.jp/articles/20170208/ddl/k29/040/458000c

 

昨年11月に訪ねたときの様子。

massneko.hatenablog.com

 

そのときの写真(上記のエントリから)

 

現地の説明板にあった写真。

 

現地で見た時はいずれは清掃するのかなと感じた程度だったが、遺構としては最も丈夫であると思われる「石材」でも劣化の恐れが起こってしまうとは・・・

いつでも見られるということは大変貴重な機会ですので、うまく改善されることを祈りたいと思います